・・・私は唯だ来春、正月でなければ遊びに来ない、父が役所の小使勘三郎の爺やと、九紋龍の二枚半へうなりを付けて上げたいものだ。お正月に風が吹けばよいと、そんな事ばかり思って居た。けれども、出入りの八百屋の御用聞き春公と、家の仲働お玉と云うのが何時か・・・ 永井荷風 「狐」
・・・愁を溶いて錬り上げし珠の、烈しき火には堪えぬほどに涼しい。愁の色は昔しから黒である。 隣へ通う路次を境に植え付けたる四五本の檜に雲を呼んで、今やんだ五月雨がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団を捨てて椽より両足をぶら下げている。「あの木立・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内部のような散歩道を、私は一緒になって、悠然と、続きの菜っ葉服を見て貰いたいためででもあるように、頭を上げて、手をポケットで、いや、お恥しい話・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・睨まれると凄いような、にッこりされると戦いつきたいような、清しい可愛らしい重縁眼が少し催涙で、一の字眉を癪だというあんばいに釣り上げている。纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・例えば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ なぜわたくしは今日あなたに出し抜けに手紙を上げようと決心いたしたのでしょう。人の心の事がなんでもお分かりになるあなたに伺ってみたら、それが分かるかも知れません。わたくしこれまで手紙が上げたく思いましたのは、幾度だか知れません。それでい・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・申上げても嘘だといっておしまいなさいましょう。(半ば独言ははあ、あの離座敷に隠れておったわい。主人。誰が。家来。何だかわたくしも存じません。厭らしい奴が大勢でございます。主人。乞食かい。家来。如何でしょうか。主人。そんな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・目の前に鼻の欠けた地蔵様が立ってござるので、その地蔵様に向いて、未来は必ず人間界に行かれるよう六道の辻へ目じるしの札を立てて下さいませ、この願いが叶いましたら、人間になって後、きっと赤い唐縮緬の涎掛を上げます、というお願をかけた、すると地蔵・・・ 正岡子規 「犬」
・・・象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯と紙を捧げていた。象は早速手紙を書いた。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」 童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。 赤衣の童子が、そうして山・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」 縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめた木箱を、六畳の方へ運び入れてくれた。夫婦揃ったところを見ると、陽子は微に苦笑し・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫