・・・ 「いや、僕はそうは思わん。先生、若い時分、あまりにほしいままなことをしたんじゃないかと思うね」 「ほしいままとは?」 「言わずともわかるじゃないか……。ひとりであまり身を傷つけたのさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面が・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・この頃は定めてますます肥ったろう。僕は毎日同じ帽子同じ洋服で同じ事をやりに出て同じ刻限に家に帰って食って寝る。「青春の贅沢」はもう止した。「浮世の匂」をかぐ暇もない。障子は風がもり、畳は毛立っている。霜柱にあれた庭を飾るものは子供の襁褓くら・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・「古びのついたところがいいね」「もうだめや。少し金をかけるといいけれど、私の物でもないんですから」「おひろさんのかね」「ええまあ」「僕はあすこにいて悪いかしら」道太は離れの二階を見上げながら言ったが、格式ばかりに拘泥って・・・ 徳田秋声 「挿話」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ 田崎と云うのは、父と同郷の誼みで、つい此の間から学僕に住込んだ十六七の少年である。然し、私には、如何にも強そうなその体格と、肩を怒らして大声に話す漢語交りの物云いとで、立派な大人のように思われた。「先生、何の御用で御座います。」・・・ 永井荷風 「狐」
・・・なるほどそれが僕の素人であるところかも知れないと答えたようなものの、私は二宮君にこんな事を反問しました。僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・の如きは、片手に註解本をもつて読まない限り、僕等の如き無識低能の読書人には、到底その深遠な含蓄を理解し得ない。「ツァラトストラ」の初版が、僅かにただ三部しか売れなかつたといふ歴史は、この書物の出版当時に於て、これを理解し得る人が、全独逸に三・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・「僕は君の頼みはどんなことでも為よう。君の今一番して欲しいことは何だい」と私は訊いた。「私の頼みたいことわね。このままそうっとしといて呉れることだけよ。その他のことは何にも欲しくはないの」 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管を巻かれちゃア、旦那様がまたお困り遊ばさア」「いつ私が管を巻いたことがあります」と、小万は仰山らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 若き時は夫の親類友達下部等の若男には打解けて物語近付べからず。男女の隔を固すべし。如何なる用あり共、若男に文など通すべからず。 若き時は夫の親類友達等に打解けて語る可らず、如何なる必要あるも若き男に文通す可らずと・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫