・・・そもそも日本の女の女らしい美点――歩行に不便なる長い絹の衣服と、薄暗い紙張りの家屋と、母音の多い緩慢な言語と、それら凡てに調和して動かすことの出来ない日本的女性の美は、動的ならずして静止的でなければならぬ。争ったり主張したりするのではなくて・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・殺すなといえばすぐ心が落ち付いて唯其犬が不便になったのである。然し対手は太十の心には無頓着である。「おっつあん殺すのか」 斯ういう不謹慎ないいようは余計に太十を惑わした。「そうよな」 と太十は首をかしげた。「どうせ駄目だ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねたら、それほど西洋が好いとも思わない、しかし日本には演奏会と芝居と図書館と画館がないのが困る、それだけが不便だと云われた。一年ぐらい暇を貰って遊んで来てはどうですと促がして見たら、そりゃ無論やって貰える、け・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・のみならずその当時は交通が非常に不便でありまして、東京から大阪へちょっと手紙一本で呼出されて来て講演をすると云うようなことすら、できないとは限りませんが、なかなか億劫でこう手軽には行きません。来るにしても駕籠に揺られて五十三次を順々に越すの・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・よんどころなく覚悟を極め申し候。不便と御推もじ願い上げまいらせ候。平田さんに済み申さず候。西宮さんにも済み申さず候。お前さまにも済みませぬ。されど私こと誠の心は写真にて御推もじ下されたくくれぐれもねんじ上げまいらせ候。平田さんにも西宮さんに・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・而してその政権はもとより上士に帰することなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀会計のことに至ては上士の短所なるを以て、名は役頭または奉行などと称すれども、下役なる下士のために籠絡せ・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・やや躊躇していたが、このあたりには人家も畑も何もない事であるからわざわざかような不便な処へ覆盆子を植えるわけもないという事に決定して終に思う存分食うた。喉は乾いて居るし、息は苦しいし、この際の旨さは口にいう事も出来ぬ。 明治廿六年の夏か・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ところが働きながら歯医者へ通うことは時間の都合で不便だから、とうとうわたし達は工場へ歯科診療所をこしらえることにしたんです。二年計画でやったんです。みんなよろこんでいますよ。――わたしたちは誰しも早く婆さんになってしまいたくはないものね」・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・そんなら不便じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。 五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の会のあったと・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫