・・・少なくも、その書中から、滋養を摂るのに、それも稀にしかない本でゞもないかぎり、手垢がついていては、不快を禁ずることができないのであります。 書物でも、雑誌でも、私はできるだけ綺麗に取扱います。それなら、それ程、書物というものをありがたく・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ 芳本は日増に不快と焦燥の念に悩まされて、暗い顔してうっそりかまえている耕吉に、毎日のようにこんなことを言いだした。「まさか……」 惣治はいよいよ断末魔の苦しみに陥っていることを思いながらも、耕吉もそうした疑惑に悩まされて行った・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。でも実際よく瞞さ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正は既にいないので、大いに失望した上に、お正の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝って渓の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞ぐ一方であるか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・幸福主義は初めは個人の感覚的快、不快から発祥する。ハートゥレイによれば道徳的情操は、他の高尚な諸感情とともに、感覚に伴う快、不快の念から連想作用によって発生したものである。彼は同情も、仁愛も利己的な快、不快の感から導き出した。初めは快、不快・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そして頭の中に不快なもがもがが出来ていた。「これ二反借って来たんは、丸文字屋にも知らんのじゃけど……」 もう行ったことに思っていたお里が、また枕頭へやって来た。「あの、品の肩掛けと、着物に羽織は借って戻ったんを番頭さんが書きとめ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・その面上にははや不快の雲は名残無く吹き掃われて、その眼は晴やかに澄んで見えた。この僅少の間に主人はその心の傾きを一転したと見えた。「ハハハハ、云うてしまおう、云うてしまおう。一人で物をおもう事はないのだ、話して笑ってしまえばそれで済むの・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・彼にとって、恵子との記憶は不快だった。記憶の中に生きている自身があまり惨めに思えたからだった。 その通りはこころもち上りになっていて、真中を川が流れていた。小さい橋が二、三間おきにいくつもかけられている。人通りが多かった。明るい電燈で、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・自分はわが説が嘲りの中に退けられたように不快を感ずる。もしかなたの帆も同じくこちらへ帰るのだとすると、実際の藤さんの船はどれであろう。あちらへ出るのには今の場合は帆が利かぬわけである。けれども帆のない船であちらへ行くのは一つもない。右から左・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。 金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執れるのだ。見ちゃ・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫