・・・寺田は女中にアルコールを貰ってメタボリンを注射した。一代が死んだ当座寺田は一代の想い出と嫉妬に悩まされて、眠れぬ夜が続いた。ある夜ふとロンパンの使い残りがあったことを想い出した。寺田は不眠の辛さに堪えかねて、ついぞ注射をしたことのない自分の・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・…… 下の谷間に朝霧が漂うて、アカシアがまだ対の葉を俯せて睡っている、――そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、小さなのは褞袍の中に負ぶって、前の杉山の下で山笹の筍など抜いて遊んでいる。「お早うごいす」 ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・私はその夜床へはいってからの不眠や、不眠のなかで今の幸福に倍する苦痛をうけなければならないことを予感したが、その時私の陥っていた深い感動にはそれは何の響きも与えなかった。 休憩の時間が来たとき私は離れた席にいる友達に目めくばせをして人び・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 心がそんなことにひっかかると私はいつも不眠を殃いされた。眠れなくなると私は軍艦の進水式を想い浮かべる。その次には小倉百人一首を一首宛思い出してはそれの意味を考える。そして最後には考え得られる限りの残虐な自殺の方法を空想し、その積み重ね・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ころのものなのであったが、盆地特有の酷暑で、少しへんになっていた矢先であったし、また、毎日、何もせず、ただぽかんと家主からの速達を待っていて、死ぬほど退屈な日々を送って、むしゃくしゃいらいら、おまけに不眠も手伝って発狂状態であったのだから、・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・私は、その薬品に拠らなければ眠れなくなった。私は不眠の苦痛には極度にもろかった。私は毎夜、医者にたのんだ。ここの医者は、私のからだを見放していた。私の願いを、いつでも優しく聞き容れてくれた。内科病院に移ってからも、私は院長に執拗にたのんだ。・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私は、それに応えて、夜の不眠の苦痛を語った。そのとき、先輩は声をはげまし、「なにを言うのだ。そんなときこそ、小説の筋を考える、絶好の機会じゃないか。もったいないと思わないか!」 私は、一言もなかった。ありがたい気がした。五臓に、しみ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・青年の左の眼は、不眠のために充血していた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じていました。」「おれだって、いのちの糧を持っている。」 低くそう言って、へんに親し・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 終日、うつら、うつら。不眠が、はじまった。二夜。今宵、ねむらなければ、三夜。 月 日。 あかつき、医師のもとへ行く細道。きっと田中氏の歌を思い出す。このみちを泣きつつわれの行きしこと、わが忘れなば誰か知るらむ。医師に強要し・・・ 太宰治 「悶悶日記」
・・・夕刊を見ながら私は断水の不平よりはむしろ修繕工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。 このような事のある一方で、私の宅の客間の電燈をつけたり消したりするために・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
出典:青空文庫