・・・これまで日本歴史の家系譜の中にはっきり名が現われている婦人は藤原家も道長の一族で后や、中宮になったり王子の母となったりした女性だけである。美しきヘレネのように、藤原一族の権力争いのために利用価値のあるおくりもの、または賭けものであった婦人達・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・という作品をどういう風に紹介したかといえば、あの作品は日本の十一世紀頃に書かれたものであって、その作者である紫式部という女性は、藤原家出身の中宮が、政策のために自分の周囲に文学の才能ある婦人を召しかかえた、その宮女の一人であったという現実を・・・ 宮本百合子 「婦人の創造力」
・・・知られている通り彼女は中宮定子の官女として宮廷生活をしていたのであったが、この中宮の生涯はあわれの深いところがあって、はじめの頃は華やかなあけくれで内外に大きな勢力もおよんでいたが、後には権力ある外戚藤原氏が奉った他の女人が当時の事情として・・・ 宮本百合子 「山の彼方は」
・・・ 二十三で権中納言、二十七で従二位中宮太夫となった道長は、三十歳の長徳元年、左近衛の大将を兼ねるようになったが、その前後に、大臣公卿が夥しく没した。その年のうちにも三月二十八日に閑院大納言、四月十日には中関白。小一條左大将済時卿は四月二・・・ 宮本百合子 「余録(一九二四年より)」
・・・この時代の歴史の上に父の姓とともに固有の名を記されているのは、極く少数の、藤原氏直系の娘たちだけで、いずれも皇后、妃、中宮などになった人達ばかりである。 藤原氏は、宮廷内のあらゆる隅々まで一族の権力を伸張させるために、抑々藤原鎌足の時代・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫