・・・ふと、ある店頭のところで、買物している丸髷姿の婦人を見掛けた。 大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。 避ける間隙も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見た・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・これは映画の草昧時代において、波の寄せては砕けるさまがそのままに映るのを見せて喜ばせたと同様に、トーキーというものにまだ一度も接したことのない観客に、丸髷の田中絹代嬢の「ネー、あなたあ」というような声を聞かせて喜ばせようというだけの目的であ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・その傍に立った丸髷の新婦が甲斐甲斐しく襷掛けをして新郎のために鬚を剃ってやっている光景がちらと眼前に展開した。透見の女性達の眼には、その光景が、何かひどく悪い事でもしている現場を見届けでもしたように、とにかく笑うべく賤しむべきこととして取扱・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・若い丸髷の下町式マダムが弁慶縞の上っぱりで、和装令嬢式近代娘を相手に、あでやかにつややかに活躍している。 またある日。 糸のような雨が白い空から降る。右手の車庫のトタン屋根に雀が二羽、一羽がちょんちょんと横飛びをして他の一羽に近よる・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・その最後の一人は、一時に車中の目を引いたほどの美人で、赤いてがらをかけた年は二十二、三の丸髷である。オリブ色の吾妻コオトの袂のふりから二枚重の紅裏を揃わせ、片手に進物の菓子折ででもあるらしい絞りの福紗包を持ち、出口に近い釣革へつかまると、そ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・……………仲町を左へ曲って雪見橋へ出ると出あいがしらに、三十四、五の、丸髷に結うた、栗に目口鼻つけたような顔の、手頃の熊手を持った、不断著のままに下駄はいた、どこかの上さんが来た。くたびれた様も見えないで、下駄の歯をかつかつと鳴らしながら、・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・それが崩れるとまた暫く何も出来ずに居たが、ようよう丸髷の女が現れた。その女の鬢が両方へ張って居るのは四方へ放って居る光線がそう見えるのである。その光線の鬢は白くまばらなので石膏細工の女かと思われた。この女は初め下向いて眼を塞いで居たが、その・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・日本の女性の真実は、家庭にあってのよい妻、よい母としての姿にあるとして、丸髷、紋付姿がそのシンボルのようにいわれていたのは、つい今年の初め頃のことであった。そこで描かれていた女の理想は、あくまで良人の背後のもの、子供のかげの守り、として家庭・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・ 薄い毛を未練らしく小さい丸髷にして、鼠色のメリンスの衿を、町方の女房のする様に沢山出して、ぬいた、お金の、年にそぐわない厭味たっぷりの姿を見るとすぐお君は、無理な微笑をして、 お帰りやすと云った。 一通り部屋の中を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫