・・・その詳細の数字は略するが、冬期すなわち十二月一月二月の三か月中における総降水日数を、最近四か年について平均したものをあげてみると、次のようである。伊吹山 六九、二 岐阜 四十、二敦賀 七二、八 京都 ・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
・・・年のせいか左脚のリュウマチが、この二月の寒気で痛んでしようがなかった。「温泉にやりちゃあけんと、そりゃ出来ねえで、ウンと寝て癒してくんなさろ……」 息子は金がないのを詫びて、夫婦して、大事に善ニョムさんを寝かしたのだった……が、まだ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・維新の後私塾を開いて生徒を教授し、後に東京学士会院会員に推挙せられ、ついで東京教育博物館長また東京図書館長に任ぜられ、明治十九年十二月三日享年六十三で歿した。秋坪は旧幕府の時より成島柳北と親しかったので、その戯著小西湖佳話は柳北の編輯する花・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ニロは千八百六十年二月一日に死にました。墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々精しい。 カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。夏の最中には蔭深き敷石の上にささや・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・十円の金は、善吉のために残りなく費い尽し、その上一二枚の衣服までお熊の目を忍んで典けたのであッた。 それから後、多くは吉里が呼んで、三日にあげず善吉は来ていた。十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼ことがなくなり、時々耄碌頭巾を冠ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ また、一昨年一二月八日に金星の日食ありて、諸外国の天文家は日本に来て測量したり。この時において、学者は何の観をなしたるか。金の魚虎は墺国の博覧会に舁つぎ出したれども、自国の金星の日食に、一人の天文学者なしとは不外聞ならずや。 また・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもうこの前の凶作を思い出して、生・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・〔一九四八年二月〕 宮本百合子 「愛」
・・・寛永十五年二月二十五日細川の手のものが城を乗り取ろうとしたとき、数馬が「どうぞお先手へおつかわし下されい」と忠利に願った。忠利は聴かなかった。押し返してねだるように願うと、忠利が立腹して、「小倅、勝手にうせおれ」と叫んだ。数馬はそのとき十六・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 紅葉のなくなったあとの十二月から、新芽の出始める三月末までの間が、京都を取り巻く山々の静止する時期である。新緑から紅葉まで絶えず色の動きを見ていると、この静止が何とも言えず安らかで気持ちがよい。緑葉としては主として松の樹、あとは椎や樫・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫