・・・やっと、人心地がついた所で頭の上の扁額を見ると、それには、山神廟と云う三字があった。 入口の石段を、二三級上ると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊の金甲山神が、蜘蛛の巣にとざされながら、ぼんやり・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・巡査さんに咎められましたのは、親父今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人心地もござりませなんだ。いやもうから意気地がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではご・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・いままで、がっかりとして人心地のなかった彼は勇んで飛びあがりました。ああ、これこそ神さまのお助けだと思って、その火影をただ一つの頼りに、前へ前へと歩き出したのでありました。 宝石商は、やっとその燈火のさしてくるところにたどり着きました。・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・ 寝巻に着更えたので、やっと人心地が甦ったのであろうと、小沢もふと心に灯のついた想いがしたが、それだけに一層不幸そうな娘がいじらしくてならなかった。「ところで、も一度きくけど、一体どうしてあんな恰好で飛び出したの」 小沢は裸のこ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 全く敗亡て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥て居た。ふッと……いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには……おお、矢張人声だ。蹄の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、万一敵だったら、其の時は如何する? この苦しみに輪を掛け・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は人心地を知った。 一本の燐寸の火が、焔が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた―― 突然烈しい音響が野の端から起こった。 華ばなし・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・はじめて、人心地を取りかえしたのかも知れない。それまでは、私は、あまりの驚愕に、動顛して、震えることさえ忘却し、ひたすらに逆上し、舌端火を吐き、一種の発狂状態に在ったのかも知れない。「たしかに、いたのだ。たしかに。まだ、いるかも知れない。」・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・喉が乾いて居ると見えて、お婆さんは殆ど機械的に三杯お茶を飲み干すと、始めて人心地が付いたように、眼を大きくして、四辺を見廻した。そして、手拭で頭の汗を掻くと、其を顎の辺に止めたまま、いきなり「今日は、はあお仙さと伺いを立てにいぎやしてな・・・ 宮本百合子 「麦畑」
出典:青空文庫