・・・それ以来幸なことに白痴は一人も出なかった。尤も、気違いが一人いたが。――三十五になる、村ではハイカラな女であった。彼女は東京に出て、墓地を埋めて建てた家を知らずに借りて住んだ。そこで二人目の子供を産んで半月立った或る夕方、茶の間に坐っていた・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・ 某つらつら先考御当家に奉仕候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙りしは言うも更なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・ 十 馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。「お母ア、梨々。」「ああ、梨々。」 馭者台では鞭が動き・・・ 横光利一 「蠅」
・・・ が、この奴隷商人の宣伝が嘘であることを立証したのは十九世紀以来の探検家である。なるほどアフリカの沿岸には、奴隷商人が荒し回った限り、ニグロ固有の文化はなんにも残っていない。そこにあるのはヨーロッパの安物商品、ズボンをはいたみじめなニグ・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
出典:青空文庫