・・・ふと何かに脅されたような心もちがして、思わずあたりを見まわすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしている。が、重い硝子戸は中々思うようにあがらないらしい。あの皸だらけの頬は愈赤くなって、時々鼻洟をすす・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時の間にか寝入っていた。 居鎮まって見ると隙間もる風は刃のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝をしながら藁の中でがつがつと震えていた。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・門まで僅か三四間、左手は祠の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹、鬼百合、夏菊など雑植の繁った中に、向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さって、何時の間にか星は隠れた。鼠色の空はどんよりとして、流るる雲も何にもない。なかなか気が晴々しないから、一・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・甲に話しているかと思うと何時の間にか乙と談じている。一つ咄が多勢に取繰返し引繰返しされて、十人ばかりの咄を一つに纏めて組立て直さないと少しも解らなかった。一同はワヤ/\ガヤ/\して満室の空気を動揺し、半分黒焦げになったりポンプの水を被ったり・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・それはいいのです。困るのはそれがもう此方の勝手では止まらなくなっていることです。そればかりではありません。それは何時の間にか私の堪らなくなる種類のものをやります。先程の婦人がそれにつれて踊るであろうような音楽です。時には嘲笑的にそしてわざと・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・そこで直ぐは帰らず山内の淋むしい所を撰ってぶらぶら歩るき、何時の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時く凝然と品川の沖の空を眺めていました。『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電のように僕の心中・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 子供を前に置いて、おげんは蛙の鳴声なぞを真似して見せて戯れるうちに、何時の間にか彼女の心は本物の蛙の声の方へ行った。何処かの田圃の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・「原君、原君、まだまだ吾儕の時代だと思ってるうちに、何時の間にか新しい時代が来ているんだね」 長いこと二人は言葉を交さないで、悄然と眺め入っていた。 やがて別れる時が来た。暫時二人は門外の石橋のところに佇立みながら、混雑した往来・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・御断りをした積りでいるうちに何時の間にかつかまってしまって、とうとうこの「見ざるの記」を書く事になった。 見ないものの批評が出来ようはずはない。と始めには考えたが、しばらくするとこの考えは少し変って来た。去年の秋一度逢ったきりで逢わない・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・此人はまだ極老に非ず、心身共に達者にして能く事を弁ずれども、夫婦両人は常に老人をうるさく思い、朝夕の万事互に英語を以て用を達するの風なりしゆえ、転宅の其朝に至るまで何事も老人の耳に入らずして一切夢中、何時の間にか荷物同様新宅に運搬せられたる・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
出典:青空文庫