・・・道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて、扇子を使いながら歩いていた。山では病室の次ぎの間に、彼は五日ばかりいた。道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・爺さんはその言葉遣いや様子合から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑った顔を見たことがなかった。人は落魄して、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。 戦争・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んでおったチェルシーなのである。 カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のごとく存在している。否彼の多年住み古・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・私は今までの異常な出来事に心を使いすぎたのだろう。何だか口をきくのも、此上何やかを見聞きするのも憶却になって来た。どこにでも横になってグッスリ眠りたくなった。「どれ、兎に角、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」 私は、いつの間・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 出入りの鳶の頭を始め諸商人、女髪結い、使い屋の老物まで、目録のほかに内所から酒肴を与えて、この日一日は無礼講、見世から三階まで割れるような賑わいである。 娼妓もまた気の隔けない馴染みのほかは客を断り、思い思いに酒宴を開く。お職女郎・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そこで使いなれた智識感情といえる語を用いていわんには、大凡世の中万端の事智識ばかりでもゆかねば又感情ばかりでも埒明かず。二二※が四といえることは智識でこそ合点すべけれど、能く人の言うことながら、清元は意気で常磐津は身があるといえることは感情・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・など思うに任せて新語新句をはばかり気もなく使いたるのみならず、「人豆を打つ」「涼しさ広き」「窓をうづめてさく薔薇」などいうがごとく、詩または俳句には用うれど、歌にはいまだ用いざる新句法をも用いたるはその見識の凡ならぬを見るべし。「神代のにほ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・スコープをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。「そこのその突起を壊さないように。スコープを使いたまえ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・電燈に使い馴れた覆いをかけると、狭い室内は他人の家の一部と思えないような落付きをもった。陽子は、新らしい机の前にかけて見た。正面に夜の硝子窓があった。その面に、電燈と机の上のプリムラの花が小さくはっきり映っている。非常に新鮮な感じであった。・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ このときの数馬の様子を光尚が聞いて、竹内の屋敷へ使いをやって、「怪我をせぬように、首尾よくいたして参れ」と言わせた。数馬は「ありがたいお詞をたしかに承ったと申し上げて下されい」と言った。 数馬は傍輩の口から、外記が自分を推してこの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫