・・・青年の左の眼は、不眠のために充血していた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じていました。」「おれだって、いのちの糧を持っている。」 低くそう言って、へんに親し・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 胃の腑の適当な充血と消化液の分泌、それから眼底網膜に映ずる適当な光像の刺激の系列、そんなものの複合作用から生じた一種特別な刺激が大脳に伝わって、そこでこうした特殊の幻覚を起こすのではないかと想像される。「胃の腑」と「詩」との間にはまだ・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・一週間、全一週間、そのために寝たっきり呻いていた、足の傷の上にこの体を載せて、歩いたので、患部に夥しい充血を招いたのに違いなかった。 ――どこにいるんだか、生きているんだか死んでるんだか知らないが、親たちが此態を見たら―― と、私は・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出されていた。 善吉はややしばらく瞬きもせず吉・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・唸りながら時々充血して痛そうな眼玉をドロリと動かしては、上眼をつかい、何かさがすようにしている。自分は、廊下の外から枕元の金網に鼻をおしつけるようにして見守った。間もなく、今野は唸るのをやめ、力いっぱい血走った眼で上眼をつかいハッ、ハッと息・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・もう糖尿病になっていたので、下を向いていることは歯齦を充血させて体力が持たなかった。そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。 その・・・ 宮本百合子 「母」
・・・何とつよく見ることだ。充血した二つの目と蒼黄色く荒れた二つの頬とで、彼女は答を待っている。――マダム・ブーキンもすべて云うだけの事は云ってしまった。そして、彼の口許を見た。――ジェルテルスキーは、そのように押しづよい女の四つの目で見つめられ・・・ 宮本百合子 「街」
・・・徹夜をした人の目のように、軽い充血の痕の見えている目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前の方向を凝視している。この男の傍には、少し背後へ下がって、一人の女が附き添っている。これも支度が極地味な好みで、その頃流行った紋織お召の単物も、・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫