・・・「ええ、全くやり切れませんよ。何しろ沖へ泳いで行っちゃ、何度も海の底へ潜るんですからね。」「おまけに澪に流されたら、十中八九は助からないんだよ。」 Hは弓の折れの杖を振り振り、いろいろ澪の話をした。大きい澪は渚から一里半も沖へつ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・「不作つづきだからやりきれないよ全く」「そうだ」 ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論まれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ フレンチはこの時になって、やっと重くるしい疲が全く去ってしまったような心持になった。気の利いたような、そして同時に勇往果敢な、不屈不撓なような顔附をして、冷然と美しい娘や職工共を見ている。へん。お前達の前にすわっている己様を誰だと思う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その内全く夜になった。犬は悲しげに長く吠えた。その声はさも希望のなさそうな、単調な声であった。その声を聞くものは、譬えば闇の夜が吐く溜息を聞くかと思った。その声を聞けば、何となく暖かい家が慕わしくなる。愛想のある女の胸が慕わしくなる。・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・ そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。下 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・かくのごとく二回三回数時間の後全く乳牛の避難を終え、翌日一日分の飼料をも用意し得た。 水層はいよいよ高く、四ツ目より太平町に至る十五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟をもって渡るも困難を感ずるくらいである。高架線の上に立って、逃げ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・午後九時頃には、わが聨隊の兵は全く乱れてしもて、各々その中隊にはおらなかった。心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来る・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・私店けし入軽焼の義は世上一流被為有御座候通疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座候に付享和三亥年はしか流行の節は御用込合順番札にて差上候儀は全く無類和かに製し上候故御先々様にてかるかるやきまたは水の泡の如く口中にて消候ゆゑあはかるやき・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ しかし問題はいまだ全く釈けませんでした。緑の野はできましたが、緑の林はできませんでした。ユトランドの荒地より建築用の木材をも伐り得んとのダルガスの野心的欲望は事実となりて現われませんでした。樅はある程度まで成長して、それで成長を止めま・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
出典:青空文庫