・・・会話が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よ・・・ 太宰治 「弱者の糧」
・・・私は、そのような奇怪の、ほの白い人の顔の出没に接しても、ただ単に、屈辱を感じただけで、それ以上の深い詮索をしなかった。ほかに、あれこれ考えなければならぬ事が多く、そんな、黄昏の人の顔など、ものの数で無かった。ばかにしてやがる。そう呟いて、窓・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。 ここに最奇怪の念に堪えな・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏れて行く雪の日の空に似ている。 日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩かれ早かれ来ねばならぬ。 生きている中・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・そういう技術的な専門通路が、からたち垣の一重外を通っているのであるから、自然、うちへも何度か顔を見せぬ君子が出没した。 私が六つぐらいだった或る夏の夜、蚊帳を吊って弟たち二人はとうにねかされ、私だけ母とその隣りの長四畳の部屋で、父のテー・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・作者は、その国の億万長者たちが世界地図をいつの間にか盤にして、その上にチェスのコマを動かしているように、世界のあらゆる場所にラニー・バッドを出没させる。地球とそこに起る出来ごとは作者の目の下にあるようだが、主人公であるラニー・バッドとは、何・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・ウルサイ人間とばかな人間との群れに悪党が出没して、真面目に生きようとすると神経衰弱になる。樗牛は「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」とて神経衰弱に縄を張った。あに計らんやからめ手は肺病に破られて、樗牛はどうしても真面目に生きねばなら・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫