・・・ もう酔のまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身なぞを犬に投げてやった。「あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。」「何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。」「この犬は鼻が黒・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事、仁右衛門の小屋は前の小作から十五円で買ってあるのだから来年中に償還す・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間は腹のへって来るのが楽みで、一日に五回ずつ食ってやった。出掛けて行って食って来て、煙草でも喫んでるとまた直ぐ食いたくなるんだ。A 飯の事をそう言えや眠る場所だってそうじゃないか。毎晩毎晩同じ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃るがごとく見え初めた妙義の錦葉と、蒼空の雲のちらちらと白いのも、ために、紅、白粉の粧を助けるがごとくであった。 一つ、次の最初の停車場へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・時間を考えると、初めいるかと問うた時たしかにいたものならば、その後の間はまことにわずかの間に相違ないが、まさか池にと思って早く池を見なかった。騒ぎだした時、すぐに池を見たら間に合ったかもしれなかった。そういう生まれ合わせだと皆はいうけれど、・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ずどん云う大砲の音を初めて聴いた時は、こおうてこおうて堪らんのやけど、度重なれば、神経が鈍になると云うか、過敏となるて云うか、それが聴えんと、寂しうて、寂しうてならん。敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・言換えれば椿岳は実にこの不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であって、その一生はあたかも江戸末李より明治の初めに到る文明急転の絵巻を展開する如き興味に充たされておる。椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けま・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・これはだんだん彼らに馴れていかなければならぬと、初めは離れたところで、からすは地面に降りて餌を探していました。 しかし、いくら同じように黒っぽくても、からすとはととは、ちょっと見てもよくわかります。子供らは、からすを見つけると、石を拾っ・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・ 私はもう初め首の落っこって来た時から、恐くて恐くてぶるぶる顫えていました。 大勢の見物もみんな顔色を失って、誰一人口を利く者がないのです。 爺さんは泣きながら、手や足や胴中を集めて、それを箱の中へ収いました。そして、最後に、子・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫