・・・が、とにかく保吉は三十年後の今日さえ、しみじみ塵労に疲れた時にはこの永久に帰って来ないヴェネチアの少女を思い出している、ちょうど何年も顔をみない初恋の女人でも思い出すように。 六 お母さん 八歳か九歳の時か、とにかく・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 正にこの声、確にその人、我が年紀十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間一度もその顔を見なかった、絶代の佳人である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴を言うのではありません。 ……この凄い吹雪の夜、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。 四 その時は、四畳半ではありません。が、炉を切った茶の室・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ これが僕の初恋、そして最後の恋さ。僕の大沢と名のる理由も従ってわかったろう。 国木田独歩 「初恋」
・・・ 私は部屋の机のうえに原稿用紙をひろげて、「初恋の記」と題目をおおきく書き、それから、或る新進作家の名前を――いまは私の名前を、書き、それから、二三行書いたり消したりして苦心の跡を見せ、それを女中たちに見えるように、わざと机のうえに置き・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・中学時代のかれの初恋、つづいて起こった恋愛事件、それがのみ込めないので、長い間筆がとれなかった。 二年、三年は経過した。 この作は、『蒲団』などよりも以前に構想したものであるが、『生』を書いてしまい『妻』を書いてしまってもまだ筆をと・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・夕方浴後の涼風を求めて神田の街路をそぞろ歩きするたびにはこの「初恋」の少女の姿を物色する五十四歳の自分を発見して微笑する。そうしてウェルズの短編「壁の扉」の幻覚を思い出しながら、この次にいついかなる思いもかけぬ時と場所で再びこの童女像にめぐ・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・その頃彼は休暇の度に近親の年上の誰かに淡い恋をしたが、次の休暇には前の恋人はすっかり忘れて、また別の初恋をするのであった。またある時は若い婦人に扮装して午餐会に現われ、父の隣席に坐って一座を驚かせた。 いよいよ Cambridge に入・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生木を割く辛い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自暴酒を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨まず人をも怨まず、やがて周囲から強られるがままに、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動して、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われない。 その時のピエエルは高等学校を卒業したばかりで、高慢なくせにはにかんだ、世慣れない青年であった。丈は不吊合に伸びていて、イギリス人の a ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫