・・・『註文帳』は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀の祟でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋の店先とその親爺・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 研屋は今でも折々天秤棒を肩にして、「鋏、庖丁、剃刀研ぎ」と呼わりながら門巷を過るが鋳掛屋の声はいつからとも知らず耳遠くなってしまった。是れ現代の家庭に在っては台所で使う鍋釜のたぐいも悉く廉価なる粗製品となり、破損すれば直様古きを棄てて・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・刃のない安全剃刀。ブリキのように固くなったオバーオールが、三着。「畜生! どこへ俺は行こうってんだ」 樫の盆見たいな顔を持った、セコンドメイトは、私と並んで、少し後れようと試みながら歩いていた。「ヘッ、俺より一足だって先にゃ行か・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・或人が剃刀の疵に袂草を着けて血を止めたるは好けれども、其袂草の毒に感じて大患に罹りたることあり。畢竟無学の罪なり。呉々も心得置く可きことなり。是等の事に就ては世間に原書もあり翻訳書もあり、之を読むは左までの苦労にあらず、婦人の為めには却て面・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・若い園丁は少し顔を赤くしながら上着のかくしから角柄の西洋剃刀を取り出します。 洋傘直しはそれを受け取って開いて刃をよく改めます。「これはどこでお買いになりました。」「貰ったんですよ。」「研ぎますか。」「ええ。」「それ・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・第一それを云いだしたのは、剃刀を二梃しかもっていない、下手な床屋のリチキで、すこしもあてにならないのでした。けれどもあんまり小さい子供らは、毎日ちょうざめを見ようとして、そこへ出かけて行きました。いくらまじめに眺めていても、そんな巨きなちょ・・・ 宮沢賢治 「毒もみのすきな署長さん」
・・・家康とその臣佐橋甚五郎という武芸に秀で笛の上手で剃刀のような男とが、一くせも二くせもある人物同士が互に互を嗅ぎ合い、警戒し合う刹那の心理の火花から、佐橋が家康の許を逐電する。二十四年後、朝鮮から来た三人の使者のうち喬僉知と名乗っているのが、・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・そのとき忠利はふと腮髯の伸びているのに気がついて住持に剃刀はないかと言った。住持が盥に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌よく児小姓に髯を剃らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」と言っ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟の喉の傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。柄がやっと二寸ばかり傷・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 家へ走り帰ると直ぐ吉は、鏡台の抽出から油紙に包んだ剃刀を取り出して人目につかない小屋の中でそれを研いだ。研ぎ終ると軒へ廻って、積み上げてある割木を眺めていた。それからまた庭に這入って、餅搗き用の杵を撫でてみた。が、またぶらぶら流し元ま・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫