・・・その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。いずれにしても、死刑そのものはなんでもない。 これは、放言でもなく、壮語でもなく、かざりの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・それは母親の気をテン倒させるに充分だった。しかもその中で、あの親孝行ものゝ健吉が「赤い」着物をきて、高い小さい鉄棒のはまった窓を見上げているのかと思うと、急に何かゞ胸にきた。――母親は貧血を起していた。「ま、ま、何んてこの塀! とッても・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・煙草を丸め込みその火でまた吸いつけて長く吹くを傍らにおわします弗函の代表者顔へ紙幣貼った旦那殿はこれを癪気と見て紙に包んで帰り際に残しおかれた涎の結晶ありがたくもないとすぐから取って俊雄の歓迎費俊雄は十分あまえ込んで言うなり次第の倶浮れ四十・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・奥もかなり広くて、青山の親戚を泊めるには充分であったが、おとなから子供まで入れて五人もの客が一時にそこへ着いた時は、いかにもまだ新世帯らしい思いをさせた。「きのうまで左官屋さんがはいっていた。庭なぞはまだちっとも手がつけてない。」 ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・もっと端的にわれらの実行道徳を突き動かす力が欲しい、しかもその力は直下に心眼の底に徹するもので、同時に讃仰し羅拝するに十分な情味を有するものであって欲しい。私はこの事実をわれらの第一義欲または宗教欲の発動とも名づけよう。あるいはこんなことを・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ ディオニシアスには、市民たちが、すべて自分に対してどんな考えを持っているかということが十分分っていました。ですから、しじゅう、ちょっとも油断をしませんでした。いつだれが、どんな手だてをめぐらして、自分を殺すかも分らないのです。ディオニ・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・いまでも、私は、充分に怒っている。おまえは、いったいに、ひとをいたわることを知らない女だ。 ――すみません。あたし、若かったのよ。かんにんしてね。もう、もう、あたし、判ったわ。犬なんか、問題じゃなかったのね。 ――また、泣く。おまえ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・中には内で十分腹案をして置いて、この席で「洒落」の広めをする人がある。それをも聞き漏さない。そんな時心から笑う。それで定連に可哀がられている。こう云う社会では「話を受ける」人物もいなくてはならないのである。 こんな風で何年か立った。・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ この一語はかれの神経を十分に刺戟した。 「もう始まったですか」 「聞こえんかあの砲が……」 さっきから、天末に一種のとどろきが始まったそうなとは思ったが、まだ遼陽ではないと思っていた。 「鞍山站は落ちたですか」 「・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この剽軽な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫