・・・机の前には格子窓がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋の前に、半天着の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下りて行くのも、やはり気が進まなかった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・婆さんはその薄暗の中に、半天の腰を屈めながら、ちょうど今何か白い獣を抱き上げている所だった。「猫かい?」「いえ、犬でございますよ。」 両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水々しい眼を動かし・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし印半天の煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・次の日の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子の半襟を掛けた綿入れに、緋の唐縮緬の新らしからぬ長襦袢を重ね、山の入ッた紺博多の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳も老けていたら、花魁の古手の新造落ちと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫