序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。 昔の話である。須々木乙彦は古着屋へはいって、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言った。「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・みんな慾の深そうな顔をした婆さんや爺さんが血眼になって古着の山から目ぼしいのを握み出しては蚤取眼で検査している。気に入ったのはまるでしがみついたように小脇に抱いて誰かに掠奪されるのを恐れているようである。これも地獄変相絵巻の一場面である。そ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・と、声も戦いながら入ッて来て、夜具の中へ潜り込み、抱巻の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳したのは、富沢町の古着屋美濃屋善吉と呼ぶ吉里の客である。 年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋に眼張のよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 土間の隅や、納屋に転がっている赤勝ちの古下駄や、何かの折に出る古着などを見ると、禰宜様宮田は、字を知らないので手紙をよこせない娘達に、どうぞ仕合せが廻って来ますように祈らずにはいられなかったのである。 禰宜様宮田は、いつもの通り地・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・「キリストは生きている!」教会だ。「質」「古着」 高い建物と建物との隙間に引込んで煤けきった大鉄骨が見えた。黒い、日のささぬ鉄骨の間に白いものを着た子供が動いていた。工場裏に似たそれは皇后児童病院だった。 チラリ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ よく肥えた秋三の母のお留は古着物を背負って、村々を廻って帰って来た。「今日は馬が狸橋から落ちよってさ。」 彼女は人の見えない内庭へ這入って大声でそう云うと、荷を縁に下ろして顔を撫でた。が、便所へ行く筈だったと気が附くと、裾を捲・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫