・・・忘れられて取残されたは、主なき水漬屋に、常に変らぬのどかな声を長く引いて時を告ぐるのであった。 三 一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りがようやくの事であった。自分は知人某氏を両国に訪うて第二の避難を謀っ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・婦燭を執りて窟壁の其処此処を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆その凸く張り出でたるところを似つかわしきものに擬えて、昔の法師らの呼びなせ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・と四隣へ気を兼ねながら耳語き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、「金さん汝情無い、わたしにそんな・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処を出づること能わじ。これあ、おれにも、もういちど地獄が来るのかな? と、ふと思う。おそろしく底から、ごうと地鳴が聞えるような不安である。私だけであろうか。「おい、お金をくれ。いくらある?」・・・ 太宰治 「鴎」
・・・ 誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいずること能わじ。」 晩秋騒夜、われ完璧の敗北を自覚した。 一銭を笑い、一銭に殴られたにすぎぬ。 私の瞳は、汚れてなかった。 享楽のための注射、一本、求・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・しばらくの別れを握手に告ぐる妻が鬢の後れ毛に風ゆらぎて蚊帳の裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤の音、戸口に見送りの人声、はや出立たんと吸物の前にすわれば床の間の三宝に枳殼飾りし親の情先ず有難く、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・これは癩をやむ人の前世の業を自ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人の脊に負える包の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚、瑪瑙、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・子女が何かの事に付き母に語れば父にも亦これを語り、父の子に告ぐることは母も之を知り、母の話は父も亦知るようにして、非常なる場合の外は一切万事に秘密なく、家内恰も明放しにして、親子の間始めて円滑なる可し。是れは自分の意なれども父上には語る可ら・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・縦いまた樗牛と予との如く、ある関係が有っても、それは言うに足らぬ事であって、今これを人に告ぐる必要を見ない。かように今の文壇の思想の圏外に予は立っていて、予の思想の圏外に今の文壇は立っている。福岡日日新聞が予に文壇の評を書けと曰うのは、我筆・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
出典:青空文庫