・・・そのうちの一度は夏目先生のたしか七回忌に雑司が谷の墓地でである。大概洋服でなければ羽織袴を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くち・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・興津彌五右衛門が正徳四年に主人である細川三斎公の十三回忌に、船岡山の麓で切腹した。その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木を買うか末木を買うかという口論から、本木説を固守した・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々触組で奉公していた。 忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門通信というものがあっ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・某が相果て候今日は、万治元戊戌年十二月二日に候えば、さる正保二乙酉十二月二日に御逝去遊ばされ候松向寺殿の十三回忌に相当致しおり候事に候。 某が相果候仔細は、子孫にも承知致させたく候えば、概略左に書残し候。 最早三十余年の昔に相成り候・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・「さっきの話は旧暦の除夜だったと君は云ったから、丁度今日が七回忌だ。」 小川は黙って主人の顔を見た。そして女中の跡に附いて、平山と並んで梯子を登った。 二階は西洋まがいの構造になっていて、小さい部屋が幾つも並んでいる。大勢の客を留め・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫