・・・そしてきのう貰った高価の装飾品をでも、その贈主がきょう金に困ると云えば、平気で戻してくれる。もしその困る人が一晩の間に急に可哀くなった別人なら、その別人にでも平気で投げ出してくれる。 ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 「それは困るだろう。よほど悪いのか」 「苦しいです」 「それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。どこまで行くんだ」 「隊が鞍山站の向こうにいるだろうと思うんです」 「だって、今日そこまで行けはせん」 「はア」・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・彼の犀利な眼にはおそらく人間のあらゆる偏見や痴愚が眼につき過ぎて困るだろうという事は想像するに難くない。稀に彼の口から洩れる辛辣な諧謔は明らかにそれを語るものである。弱点を見破る眼力はニーチェと同じ程度かもしれない。しかしニーチェを評してギ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「二人いっしょでなくちゃ困るぜ。桂さんもぜひおいで」私は言った。「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。「だが会社の方へ悪いようだったら」「それは叔父さん、いいんです」 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。買占めて空庭にして置けば閑静でよいと云って居られた。父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張った父の顔が、時・・・ 永井荷風 「狐」
・・・西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねたら、それほど西洋が好いとも思わない、しかし日本には演奏会と芝居と図書館と画館がないのが困る、それだけが不便だと云われた。一年ぐらい暇を貰って遊んで来てはどうですと促がして見たら、そりゃ無論やって貰える、け・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・いちばん困るのは、気心の解らない未知の人の訪問である。それも用件で来るのは好いのだけれども、地方の文学青年なんかで、ぼんやり訪ねて来られるのは最も困る。僕は一体話題のすくない人間であり、自己の狭い主観的興味に属すること以外、一切、話すことの・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・踏んづけちゃ困るね」「そんな大切なものなら、打っ捨らかしとかなけゃいいじゃないか」 少年は眼を瞑ったまま、バスケットから足をとった。 生々しい眉間の傷のような月が、薄雲の間にひっかかっていた。汽車は驀然と闇を切り裂いて飛んだ。・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・と、にッこり会釈し、今奥へ行こうとする吉里の背後から、「花魁、困るじゃアありませんか」「今行くッたらいいじゃアないか。ああうるさいよ」と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・すでに誉れなく、また利益なし、何のために辛苦勤学したるやと尋ねらるれば、ただ今にても返答に困る次第なれども、一歩を進めて考うれば説なきにあらず。 すなわち余は日本の士族の子にして、士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具えたるは疑も・・・ 福沢諭吉 「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」
出典:青空文庫