・・・瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。「縁喜でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 然りといえども、また一方より論ずれば、人民の智力発達するにしたがいてその権力を増すもまた当然の理なり。而してその智力は権衡もって量るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難し。家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・我が輩の持論は、今の帝室費をはなはだ不十分なるものと思い、大いにこれを増すか、または帝室御有の不動産にても定められたきとのことは、毎度陳述するところにして、もしも幸にして我が輩の意見の如くなることもあらば、私学校の保護の如き、全国わずかに幾・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・厭な一昼夜を過ごしてようよう翌朝になったが矢張前日の煩悶は少しも減じないので、考えれば考える程不愉快を増す許りであった。然るにどういうはずみであったか、此主観的の感じがフイと客観的の感じに変ってしまった。自分はもう既に死んでいるので小さき早・・・ 正岡子規 「死後」
・・・もう秋の末で薄寒い頃に袷に襦袢で震えて居るのに、どうしたかいくら口をかけてもお前は来てくれず、夜はしみじみと更ける寒さは増す、独りグイ飲みのやけ酒という気味で、もう帰ろうと思ってるとお前が丁度やって来たから狸寝入でそこにころがって居ると、オ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗われるものですから、何とも云えず青白くさっぱりしていました。 所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕や、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・現代に処する女としての新しい義務は、今日欲する欲しないにかかわらず新しく増大され、拡大されつつある女の生活経験と、すくなからぬ犠牲との中から、やがて婦人全体の幸福を増す何ものかをつかんで来ようとする根強い努力にあるのである。〔一九三七年十二・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・しかしこう云う学問はなかなか急拵えに出来る筈のものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「これからはまた新田の力で宮方も勢いを増すでおじゃろ。楠や北畠が絶えたは惜しいが、また二方が世に秀れておじゃるから……」「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復したや」「それは言わんでものこと。いかばかりぞその・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・我々の筋肉は痛苦の刺激によって緊張を増す。この昇騰の努力を表現しようとする情熱こそは、我々が人類に対する愛の最も大きい仕事である。 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫