・・・公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床の間に、泥だらけの外套を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦しをなし、火鉢の灰に啖を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形の尖った帽子を被ずいて古ぼけた外套を猫背に着た爺さんがそこへ歩みを佇めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子のたたずめる前・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。――時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車は来てるだろうな」「もうさッきから待ッてますよ」 お梅は二客の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記・・・ 正岡子規 「病」
・・・「わたしこまってしまうわ、おっかさんにもらった新しい外套が見えないんですもの。」「はやくおさがしなさいよ。どのえだにおいたの。」「わすれてしまったわ。」「こまったわね。これからひじょうに寒いんでしょう。どうしても見つけないと・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・に関係があるかもしれぬという名誉の猜疑心を誘発させたところの鞣外套をひっかけてとび出してしまった。 後から、駅の待合室へ行って見たが、そんな名物の売店なし。又電燈でぼんやり照らされている野天のプラットフォームへ出て、通りかかった国家保安・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・と云って、勝手へ往ったが、外套と靴とを置いて、座布団と煙草盆とを持って出て来た。そして百日紅の植わっている庭の方の雨戸が疎らに締まっているのを、がらがらと繰り開けた。庭は内から見れば、割合に広い。爺さんは生垣を指ざして、この辺は要塞が近いの・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫