・・・に、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでし・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・それは弱いもののそれとは何処かちがった響がある。 宇都野さんの歌の音調にはやはり自ずからな特徴がある。それは如何なる点に存するか明白に自覚し得ないが、やはり子音母音の反復律動に一種の独自の方式があるためと思われる。ともかくもその効果はこ・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・しかるに如何なる案内者といえども絶対的に誤謬のないという事は保証し難い。仮りに如何に博学多識の学者を案内として名所見物をするとしても、その人の所説にはそれぞれ何か確かな根拠はあるかもしれないが、それらの根拠を一つ一つ批判的に厳密に調べてみて・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
・・・しかし歴史はいまだかつて、如何なる人の伝記についても、殷々たる鐘の声が奮闘勇躍の気勢を揚げさせたことを説いていない。時勢の変転して行く不可解の力は、天変地妖の力にも優っている。仏教の形式と、仏僧の生活とは既に変じて、芭蕉やハアン等が仏寺の鐘・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭の片隅に残って居るであろうと思う。 井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立って居る杉の茂り・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何なる風の誘いてか、かく凛々しき壮夫を吹き寄せたると、折々は鶴と瘠せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術もあろう。偃蹇と・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学に来るようになった。来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・左れば今日我国民一般に守る可き法律に於て、離縁を許すは以上の十箇条に限り、其外は如何なる場合にても双方の相談合意に非ざれば離縁するを得ず。三行半の離縁状などは昔の物語にして、今日は全く別世界なりと知る可し。然るに女大学七去の箇条中、第一舅姑・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・夫の勧懲小説とは如何なるものぞ。主実主義を卑んじて二神教を奉じ、善は悪に勝つものとの当推量を定規として世の現象を説んとす。是れ教法の提灯持のみ、小説めいた説教のみ。豈に呼で真の小説となすにたらんや。さはいえ摸写々々とばかりにて如何なるものと・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・されども初めて彼女と約する時、余はよく彼女の性質素行の如何なるものかを知り、彼女が世上に種々なる風評を伝へらるゝとも決して之を以て煩ひとなす事なく永く相信ずべきを以てせり。而して此度の事、事甚大にして既に疑惑を挾むべき余地なきが如きも、未だ・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
出典:青空文庫