・・・ちと、腹ごなしに娑婆へ出て来て、嫁御にかき餅でも焼いてやらしゃれ。さて、ついでに私の意気になった処を見され、御同行の婆々どのの丹精じゃ。その婆々どのから、くれぐれも、よろしゅうとな。いやしからば。村越 是非近々に。七左 おんでもない・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・おそらく、三十年の後には、おまえは、またこの娑婆に出てくるだろう。」といわれました。 赤犬は、和尚さまの話を聞いて、さもよくわかるようにうなだれて、二つの目から涙をこぼしていました。 数年の後に、和尚さまも犬も、ついにこの世を去って・・・ 小川未明 「犬と人と花」
・・・すると、まるで私というものは影も形もなしに、この永え間の娑婆からずッと消えたようになくなってしまうわけだ、そう思うと厭だね、ちとあっけなさすぎる……いや、あっけねえよりか第一心細えよ。」「じゃ、旅を歇めて、家を持ったらいいでしょう。家を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ で、店は繁昌するし、後立てはシッカリしているし、おまけに上さんは美しいし、このまま行けば天下泰平吉新万歳であるが、さてどうも娑婆のことはそう一から十まで註文通りには填まらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラ病いついて、最初は医者も・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・何しろ今の娑婆というものは、そりゃ怖ろしいことになって居るんだからね」「併し俺には解らない、どうしてそんなYのような馬鹿々々しいことが出来るのか、僕には解らない」「そこだよ、君に何処か知ら脱けてる――と云っては失敬だがね、それは君は・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・まったく救われない地獄の娑婆だという気がする。死んで行った人、雪の中の監獄のT君、そして自分らだってちっとも幸福ではない。 私も惨めであるが、Fも可哀相だった。彼は中学入学の予習をしているので、朝も早く、晩日が暮れてから遠い由比ヶ浜の学・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・近代の知性は冷やかに死後の再会というようなことを否定するであろうが、この世界をこのアクチュアルな世界すなわち娑婆世界のみに限るのは絶対の根拠はなく、それがどのような仕組みに構成されているかということは恐らく人知の意表に出るようなことがありは・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆に居残っている事を心から祈っている。 大道具の頭の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町の方へ抜け・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・流を挟む左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々と烟る。娑婆と冥府の界に立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色である。画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。 舟はカメロットの水門に横付けに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫