・・・近代的懐疑とか、近代的盗賊とか、近代的白髪染めとか――そう云うものは確かに存在するでしょう。しかしどうも恋愛だけはイザナギイザナミの昔以来余り変らないように思いますが。 主筆 それは理論の上だけですよ。たとえば三角関係などは近代的恋愛の・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。 かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・うぐい亭の存在を云爾ために、両家の名を煩わしたに過ぎない。両家はこの篇には、勿論、外套氏と寸毫のかかわりもない。続いて、仙女香、江戸の水のひそみに傚って、私が広告を頼まれたのでない事も断っておきたい。 近頃は風説に立つほど繁昌らしい。こ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・「そんなに堅固な、身のほどの知らない、鉄というものが、この宇宙に存在するのか? 俺は、そのことをすこしも知らなかった。」と、盲目の星はいいました。 鉄という、堅固なものが存在して、自分に反抗するように考えたからです。 このとき、・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・お君の関心が豹一にすっかり移ってしまったので、安二郎は豹一の存在を徳とし、豹一の病気を本能的に怖れていても公然とはいやな顔をしなかった。 しかし豹一は二月も寝ていなかった。絶えず何かの義務を自分に課していなければ気のすまぬ彼は、無為徒食・・・ 織田作之助 「雨」
・・・そんな人間の存在を助けているということは、社会生活という上から見て、正しく不道徳な行為であらねばならぬ」斯ういうのが彼等の一致した意見なのであった。「一体貧乏ということは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏というものは、却て他人・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・しかしその谷に当ったところには陰気なじめじめした家が、普通の通行人のための路ではないような隘路をかくして、朽ちてゆくばかりの存在を続けているのだった。 石田はその路を通ってゆくとき、誰かに咎められはしないかというようなうしろめたさを感じ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・この時天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。『ところでもっとも僕らの感を惹いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
出典:青空文庫