・・・ しかし少くとも常子だけは半年ばかりたった後、この誤解に安んずることの出来ぬある新事実に遭遇した。それは北京の柳や槐も黄ばんだ葉を落としはじめる十月のある薄暮である。常子は茶の間の長椅子にぼんやり追憶に沈んでいた。彼女の唇はもう今では永・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・この義務感を安んずるためにはもう十分ばかり待たなければならぬ。なに、三重子は必ず来ない。待っても待たなくてもきょうの午後は愉快に独り暮らせるはずである。…… 爬虫類の標本室は今も不相変ひっそりしている。看守さえ未だにまわって来ない。その・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・肉体をくるしめて精神を安んずるのがよいか。こう考えて来て自分は愉快でたまらなくなった。われ知らず問題は解決したと独語した。 五 水が減ずるに従って、後の始末もついて行く。運び残した財物も少くないから、夜を守る考え・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・因て急に鉛筆を執りファプリシュースの一段を草して之を懐にし既にワンセンヌに至りジデローを見るも猶お去気奪湧し血脈狡憤して自ら安んずること能わず。ジデロー一誦して善しと勧めて更に敷演して一論を完結せしむ。ルーソー其言に従う所謂非開化論なり。・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・その小成に安んずるをおそるるなり。今君は弱冠にして奇功多し。願わくは他日忸れて初心を忘るるなかれ。余初めて書を刊して、またいささか戒むるところあり。今や迂拙の文を録し、恬然として愧ずることなし。警戒近きにあり。請う君これを識れと。君笑って諾・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を節制して足るを知り分に安んずることを教える自己批判がさびの真髄ではあるまいか。 俳句を修業すると・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・ こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れま・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・しかし我々は単に俳句の如きものの美を誇とするに安んずることなく、我々の物の見方考え方を深めて、我々の心の底から雄大な文学や深遠な哲学を生み出すよう努力せなければならない。我々は腹の底から物事を深く考え大きく組織して行くと共に、我々の国語をし・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・姑必ずしも薄情ならず、其安産を祈るは実母と同様なれども、此処が骨肉微妙の天然にして、何分にも実母に非ざれば産婦の心を安んずるに足らず。また老人が長々病気のとき、其看病に実の子女と養子嫁と孰れかと言えば、骨肉の実子に勝る者はなかる可し。即ち親・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その事業こそ異なれども、その人物の軽重にいたりては、毫も異なることなくして、ただ偶然にこの人物が学問に志して学者の業に安んずるがゆえに、その身の栄誉を表するの方便を得ず。かの人物が偶然に仕官に志して官吏の業につきたるがために、利禄にかねて栄・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
出典:青空文庫