・・・奈良朝の歌人は海に寄せる恋を「大船の香取の海に碇おろしいかなる人かもの思わざらん」と歌った。保吉は勿論恋も知らず、万葉集の歌などと云うものはなおさら一つも知らなかった。が、日の光りに煙った海の何か妙にもの悲しい神秘を感じさせたのは事実である・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ それで魚に同情を寄せるのである。 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なねばならないのだろう。 それなのにぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬるのである。単純な、平穏な死である。 小娘はやはり釣っている。釣をする人の・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・ さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはたりと解けて、三ツ美く包んだのは、菓子である。 と見ると、白と紅なり。「はてな。」 立花は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かなら・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・一体、悪魔を払う趣意だと云うが、どうやら夜陰のこの業体は、魑魅魍魎の類を、呼出し招き寄せるに髣髴として、実は、希有に、怪しく不気味なものである。 しかもちと来ようが遅い。渠等は社の抜裏の、くらがり坂とて、穴のような中を抜けてふとここへ顕・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・……そこで、袂から紙包みのを出して懐中へ入れて、圧えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合せてくれたのが、その茱萸なんだ。(私がついていられると可 と云う中にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・家内を呼出して、両方から、そっと、顔を差寄せると、じっとしたのが、微に黄色な嘴を傾けた。この柔な胸毛の色は、さし覗いたものの襟よりも白かった。 夜ふかしは何、家業のようだから、その夜はやがて明くるまで、野良猫に注意した。彼奴が後足で立て・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・他人が、ちょっと眉を顰める工合を、その細君は小鼻から口元に皺を寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を待草臥れて、雨に侘しげな様子が、小鼻に寄せた皺に明白であった。 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶を、唇で・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ としみじみ労って問い慰める、真心は通ったと見えまして、少し枕を寄せるようにして、小宮山の方を向いて、お雪は溜息を吐きましたが、「貴方は東京のお方でございますってね。」「うむ、東京だ、これでも江戸ッ児だよ。」「あの、そう伺い・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 多くのことは、人の心の持方、人の境遇の転換によって、波の寄せるように、暗影と光明とを伴って一去一来しているのだ。この意味に於て、私は時が偉大な裁判者だと信ずるのである。 小川未明 「波の如く去来す」
・・・けれど、問題の意味と性質さえ分れば、共に悲しみ、共に喜ぶことだけは、いかなる他人が寄せるよりも、もっと深く、且つ殉情的であるかは、すでにお母さん達が、自分の子供等についてよく知っていられる筈であります。 私は、子供程、敏感なものはないと・・・ 小川未明 「読んできかせる場合」
出典:青空文庫