・・・樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかった。梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われていたのである。 わたくしが梅花を見て・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。 昔し阿修羅が帝釈天と戦って敗れたときは、八万四千の眷属を領して・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い浮べて、力を尽して君を慰めた。しかるに何ぞ図らん、今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が次女を・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・私は立ち尽したまま、いつまでも交ることのない、併行した考えで頭の中が一杯になっていた。 哀れな人間がここにいる。 哀れな女がそこにいる。 私の眼は据えつけられた二つのプロジェクターのように、その死体に投げつけられて、動かなかった・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・大分愛想尽しをおっしゃるね」「言いますとも。ねえ、小万さん」「へん、また後で泣こうと思ッて」「誰が」「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐めるのはたくさん」 店梯子を駈け上る四五・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・裏に表に手を尽して吟味に吟味を重ね、双方共に是れならばと決断していよ/\結婚したる上は、家の貧乏などを離縁の口実にす可らざるは、独り女の道のみならず、亦男子の道として守る可き所のものなり。近年の男子中には往々此道を知らず、幼年の時より他人の・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・併し意味は既に云い尽してあるし、もとより意味の違ったことを書く訳には行かぬから仕方なしに重複した余計のことを云う。 これは語の上にもあることで、日本語の「やたらむしょう」などはその一例である、或は「強く厳しく彼を責めた」とか、或は、「優・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・べくとして出ずなりぬ梅の宿菜の花や月は東に日は西に裏門の寺に逢著す蓬かな山彦の南はいづち春の暮月に対す君に投網の水煙掛香や唖の娘の人となり鮓を圧す石上に詩を題すべく夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ浅川の西し東す若葉かな・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・心暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、又|尽ることなし。」 俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは梟のお経だった・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・「このような精力と熱情をもち、戦友に対してこれほどの献身をもつ婦人が、四十年近い間に運動のために尽した業績――このことは何びとも語らず、この事は同時代の新聞にも記録されていない。しかし私は知っている。コンミューン亡命者の婦人達がしば・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
出典:青空文庫