・・・昨日の三重子は、――山手線の電車の中に彼と目礼だけ交換した三重子はいかにもしとやかな女学生だった。いや、最初に彼と一しょに井の頭公園へ出かけた三重子もまだどこかもの優しい寂しさを帯びていたものである。…… 中村はもう一度腕時計を眺めた。・・・ 芥川竜之介 「早春」
・・・ この勢いに、男は桂谷の山手の方へ、掛稲を縫って、烏とともに飛んで遁げた。「おお。」「あ、あれ、先刻の旦那さん。」 遁げた男は治兵衛坊主で――お光に聞いた――小春であった。「外套を被って、帽子をめして、……見違えて、おほ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・それが眼に入るか入らぬに屹と頭を擡げた源三は、白い横長い雲がかかっている雁坂の山を睨んで、つかつかと山手の方へ上りかけた。しかしたちまちにして一ト歩は一ト歩より遅くなって、やがて立止まったかと見えるばかりに緩く緩くなったあげく、うっかりとし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
一 山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木の電車停留場の崖下を地響きさせて通るころ、千駄谷の田畝をてくてくと歩いていく男がある。この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・「いいえ、ここはまだ山手というほどではありません」桂三郎はのっしりのっしりした持前の口調で私の問いに答えた。「これからあなた、山手まではずいぶん距離があります」 広い寂しい道路へ私たちは出ていた。松原を切り拓いた立派な道路であっ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 人家の屋根の上をば山手線の電車が通る。それを越して霞ヶ関、日比谷、丸の内を見晴す景色と、芝公園の森に対して品川湾の一部と、また眼の下なる汐留の堀割から引続いて、お浜御殿の深い木立と城門の白壁を望む景色とは、季節や時間の工合によっては、・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・交通機関が極端な殺人状態の昨今、ただの気保養に、二人の子をつれて山手線に乗る母は、およそ無いと判断して間違いない。一家の中の細々としたさまざまの用事は食糧事情の逼迫している今日、女を家庭の内部で寸暇あらせないと共に、家庭の外へも忙しく動かせ・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・道のつき当りから山手にかかって、遙か高みの新緑の間に、さっぱりした宏壮な洋館が望まれる。ジャパン・ホテルと云うのはあれだろう。海の展望もありなかなかよさそうなところと、只管支那街らしい左右の情景に注意を奪われて居ると、思いがけない緑色の建物・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・松ケ枝川を渡った山手よりの狭い通りで車を下り、堂前のだらだら坂を登って行く。右手に番小屋が在る。一人の爺さんと、拝観に来たらしいカーキの兵卒がいる。私共は、永山氏からの名刺を通じた。「日本のお方か、西洋のお方か、どちらへやるかね」「・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫