・・・こう云うと、君は宮戸座か常盤座の馬の足だと思うだろう。ところがそうじゃない。そもそも、日本人だと思うのが間違いなんだ。毛唐の役者でね。何でも半道だと云うんだから、笑わせる。 その癖、お徳はその男の名前も知らなければ、居所も知らない。それ・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・僕は或は汽車の中から山を焼いている火を見たり、或は又自動車の中から常磐橋界隈の火事を見たりしていた。それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えない訣には行かなかった。「今年は家が火事になるかも知れないぜ」「そんな・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ いずれも、花骨牌で徹夜の今、明神坂の常盤湯へ行ったのである。 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」 とお千さんは、伊達巻一・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ということになり、つれ立って、奥の常磐へあがった。 友人もうすうす聴いていたのか、そこで夏中の事件を問い糺すので、僕はある程度まで実際のところを述べた。それから、吉原へ行こうという友人の発議に、僕もむしゃくしゃ腹を癒すにはよかろうと思っ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・こんな唄をわざわざ教えてくれたのはおきみ婆さんで、おきみ婆さんはいつも千日前の常盤座の向いの一名「五割安」という千日堂で買うてくる五厘の飴を私にくれて言うのには、十吉ちゃんは新ちゃんと違て、継子やさかい、えらい目に会わされて可哀相や。お歯黒・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 土用近い暑さのところへ汁を三杯も啜ったので、私は全身汗が走り、寝ぼけたような回転を続けている扇風機の風にあたって、むかし千日前の常磐座の舞台で、写真の合間に猛烈な響を立てて回転した二十吋もある大扇風機や、銭湯の天井に仕掛けたぶるんぶる・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 焼けた大阪劇場も内部を修理して、もう元通りの映画とレヴュが掛っていた。常盤座ももう焼けた小屋とは見えず、元の姿にかえって吉本の興行が掛っていた。 その常盤座の前まで、正月の千日前らしい雑閙に押されて来ると、またもや呼び停められた。・・・ 織田作之助 「神経」
・・・の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく飯と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手もの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択りによってこんな所・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・を迎えた年ほど私も常盤樹の若葉をしみじみとよく見たためしはなかった。今まで私は黄落する霜葉の方に気を取られて冬の初めに見られる常盤樹の新葉にはそれほどの注意も払わずに居た。あの初冬の若葉は一年を通して樹木の世界を見る最も美わしいものの一つだ・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
岩佐又兵衛作「山中常盤双紙」というものが展覧されているのを一見した。そのとき気付いたことを左に覚書にしておく。 奥州にいる牛若丸に逢いたくなった母常盤が侍女を一人つれて東へ下る。途中の宿で盗賊の群に襲われ、着物を剥がれ・・・ 寺田寅彦 「山中常盤双紙」
出典:青空文庫