・・・もし以上の如き珍々先生の所論に対して不同意な人があるならば、請う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家について、先ずその便所なるものが縁側と座敷の障子、庭などと相俟って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家から別れたその・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・自己解剖、自己批判、の傾向が段々と人心の間に広まりつつあり、精神が極めて平民的に、換言すれば平凡的になって来たのであります。人間の人間らしい所の写実をするのが自然主義の特徴で、ローマン主義の人間以上自己以上、殆んど望んで得べからざるほどの人・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・しかし明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。私は北国の一寒村に生れた。子供の時は村の小学校に通うて、父・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・町には何の異常もなく、窓はがらんとして口を開けていた。往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・や「平凡」なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。矢張り例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・世間の者は己を省みないのが癖になって、己を平凡な奴だと思っているのだ。(家来来て桜実一皿を机の上に置き、バルコンの戸を鎖戸はまあ開けて置け。(間何をそんなに吃驚するのだ。家来。申上げても嘘だといっておしまいなさいましょう。(半ば独言はは・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・写実写実と思うて居るのでこんな平凡な場所を描き出したのであろう。けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いく・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 平凡だと思われるほどすりへることのない一つの真実がある。それは、一人一人のひとが、自分のまともに生きようとする願望について不屈であることである。過去の文学談では、こういう問題は、文学以前のことという風に扱われる習慣があった。いまでも、・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。Intエントレッサン の病症でなくては厭き足らなく思う。又偶々所謂興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論発見も発明も出来るならし・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ですから二頭曳の馬車の中はいい心持にしんみりしていて、細かい調子が分かります。平凡な詞に、発音で特別な意味を持たせることも出来ます。あの時あなたわたくしに「どうです」とそうおっしゃいましたね。御挨拶も大した御挨拶ですが、場所が場所でしたわね・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
出典:青空文庫