・・・女房はわっと泣きだして、それを今日まで平気でいたお前が恨めしい。畢竟わしをばかにしているからだ。もうこれぎり実家へ帰って死んでしまうと言って、箪笥から着物などを引っ張りだす。やがて二人で大立廻りをやって、女房は髪を乱して向いの船頭の家へ逃げ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・彼女の行末のことだの、心配だのを、彼女の目の前で平気に論判します。スバーは、極く小さい子供の時から、神が何かの祟りのように自分を父の家にお遣しになったのを知っていたのでなみの人々から遠慮し、一人だけ離れて暮して行こうとしました。若し皆が、彼・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・けれども、いまの解析の本すべてが、不思議に、言い合せたように、平気でドイツ式一方である。伝統というものは、何か宗教心をさえ起させるらしい。数学界にも、そろそろこの宗教心がはいりこんで来ている。これは、絶対に排撃しなければならない。老博士は、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そしてきのう貰った高価の装飾品をでも、その贈主がきょう金に困ると云えば、平気で戻してくれる。もしその困る人が一晩の間に急に可哀くなった別人なら、その別人にでも平気で投げ出してくれる。 ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・頭はむさ苦しく延び煤けているかと思うと、惜しげもなくクリクリに剃りこぼしたままを、日に当てても平気でいる。 着物は何処かの小使のお古らしい小倉の上衣に、渋色染の股引は囚徒のかと思われる。一体に無口らしいが通りがかりの漁師などが声をかけて・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・私なんかそばではらはらするようなことでも平気や」おひろは珍らしく気を吐いた。「いつ見ても何となしぱっとしないようだな」「ぱっとできるようなら、今時分こんな苦労していませんよ。それでいいもんや。さんざ男を瞞した人の行末を見てごらんなさ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛い思いをすることか。 私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめの・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・女房はねんねこ半纏の紐をといて赤児を抱き下し、渋紙のような肌をば平気で、襟垢だらけの襟を割って乳房を含ませる。赤児がやっとの事泣き止んだかと思うと、車掌が、「半蔵門、半蔵門でございます。九段、市ヶ谷、本郷、神田、小石川方面のお方はお乗換え―・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・と男は平気で答える。「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽えんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚にふかしている。 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・だッて、平田さんがあんまり平気だから……」「なに平気なものか。平生あんなに快濶な男が、ろくに口も利き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得ないくらいだ」「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接に私によく話して・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫