・・・顔を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も年老いた。 この心なき忠告は、いったいどんな男がして呉れたものか、彼にもいまもって判らぬのだが、彼はこの屈辱をくさびとして、さまざまの不幸に遭遇しはじめた。ほかの新聞社もやっぱり「鶴」をほ・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ 私は、落ちついてふりむいた。山のきこりが、ひっそり立っていた。「女です。女を見ているのです。」 年老いたきこりは、不思議そうな面持で、崖のしたを覗いた。「や、ほんとだ。女が浪さ打ちよせられている。ほんとだ。」 私はその・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指さされる。その向こうには紫色がかった高い山が蜿蜒としている。砲声はそこから来る。 五輛の車は行ってしまった。 渠・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・自分はこの事を考えると、何よりも年老いた父に気の毒だ。せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ ベルリンの下宿はノーレンドルフの辻に近いガイスベルク街にあって、年老いた主婦は陸軍将官の未亡人であった。ひどくいばったばあさんであったがコーヒーはよいコーヒーをのませてくれた。ここの二階で毎朝寝巻のままで窓前にそびゆるガスアンシュタル・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・自分の年老いた事を半分自慢らしく半分心細そうに話した。たぶんことしで五十二三歳であったろうと思う。 自分の若かった郷里の思い出の中にまざまざと織り込まれている親しい人たちの現実の存在がだんだんに消えてなくなって行くのはやはりさびしい。た・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・竹村君は郷里に年老いた貧しい母を残してある事を想い出したのである。五円で皿を買っても暮の払いには困らぬ。下宿や洗濯屋の払いを済ませても二十円あれば足りる。今年は例年の事を思えば楽な暮であるが、去年や一昨年の苦しかった暮には、却って覚えなかっ・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・さな町でも、商人は店先で算盤を弾きながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草を吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生を眺めている。旅への誘い・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 良う御ききなされ美くしいシリンクス殿。 年老いた私共は、その若人のするほどにも思われなければ又する勢ももう失せて仕舞うたのじゃ――が年若い血のもえる人達はようする力をもってじゃ。 身分の高い低いを思ってするのではござらぬワ。・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・ 人々は、年老い、遠い昔に思を走せて居る一代前の人々の歎きを理由のないものとするかもしれない。 わびしくこぼす涙を、年寄の涙もろさから自と流れ出るものと思いなすかもしれない。 けれ共、その心を探り入って見た時に、未だ若く、歓に酔・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
出典:青空文庫