・・・町の西端に寺ありてゆうべゆうべの鐘はここより響けど、鐘撞く男は六十を幾つか越えし翁なれば力足らず絶えだえの音は町の一端より一端へと、おぼつかなく漂うのみ、程近き青年が別荘へは聞こゆる時あり聞こえかぬる時も多かり。この鐘の最後の一打ちわずかに・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ なる程、農民の生活から取材した作品、小作人と地主との対立を描いた作品、農村における農民組合の活動を取扱った作品等は、プロレタリア文学には幾つかある。立野信之、細野孝二郎、中野重治、小林多喜二等によって幾つかは生産されている。そこには、・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
・・・という字や、中途半端な「※や、K・Pという字が幾つも書かれている。看守が見付け次第それを消して廻わるのだが、次の日になると、又ちアんと書かれている。雨の降った次の日運動に出たとき、俺は泥をソッと手づかみにして、何ベンも機会を覗ったが、ウマク・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。「だれだい、この線は。」 と聞いてみると、末子のがあり、下女のお徳のがある。いつぞ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ひどい暑がりにて、その住居も、風通しのよき事をのみ考えて設計せしが、光線の事までは考え及ばざりしものの如く、今に残れるその家には、暗き部屋幾つもありというのも哀れである。されど、之等は要するに皆かれの末技にして、真に欽慕すべきは、かれの天稟・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・やがて野のところどころに高粱の火が幾つとなく燃された。 家屋の彼方では、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積み込んでいる。兵士、輸卒の群れが一生懸命に奔走しているさまが薄暮のかすかな光に絶え絶えに見える。一人の下士が貨車の・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・故野口英世博士が狂人の脳髄の中からスピロヘータを検出したときにも、二百個のプレパラートを順々に見て行って百九十何番目かで始めてその存在を認め、それから見直してみると、前に素通りした幾つもの標本にもちゃんと同じもののあるのが見つかった。 ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・この小さな日本を六十幾つに劃って、ちょっと隣へ往くにも関所があり、税関があり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度でしばって、習慣で固めて、いやしくも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人であった時代を想像して御・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・淡緑色の小さな玉が幾つか麦藁の上に軽く置かれた。太十は畑の隅に柱を立てて番小屋を造った。屋根は栗幹で葺いて周囲には蓆を吊った。いつしか高くなった蜀黍は其広く長い葉が絶えずざわついて稀には秋らしい風を齎した。腹の底まで凉しくする西瓜が太十の畑・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・大きなものの中に輪が幾つもできて漏斗みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気のつかなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。 要するにただいま申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわちできるだけ労力を節約したいと云う願望から・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫