・・・と、容易に承け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎の取りなしを機会にして、左近の同道を承諾した。まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかった・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論まれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・あまつさえ酔に乗じて、三人おのおの、その中三婦人の像を指し、勝手に選取りに、おのれに配して、胸を撫で、腕を圧し、耳を引く。 時に、その夜の事なりけり。三人同じく夢む。夢に蒋侯、その伝教を遣わして使者の趣を白さす。曰く、不束なる女ども、猥・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・キィーキィーの櫓声となめらかな水面に尾を引く舟足と、立ってる老爺と座しておる予とが、わずかに消しのこされている。 湖水の水は手にすくってみると玉のごとく透明であるが、打見た色は黒い。浅いか深いかわからぬが深いには相違ない。平生見つけた水・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・うしろからぶつと、「よして頂戴よ、お茶を引く、わ」と、僕の手を払った。「お前が役者になる気なら、僕が十分周旋してやらア」「どこへ、本郷座? 東京座? 新富座?」「どこでもいいや、ね、それは僕の胸にあるんだ」「あたい、役者・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・手を引いてしまう。手を引くばかりでなく反感を持つようになる。沼南統率下の毎日新聞社の末期が惰気満々として一人も本気に働くものがなかったのはこれがためであった。 松隈内閣だか隈板内閣だかの組閣に方って沼南が入閣するという風説が立った時、毎・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・第一字引というものを持っていない。引くのが面倒くさいので、買わぬらしい。「字引を持たぬ小説家はまア君一人だろう」 私は呆れた。 一事が万事、非常なズボラさだ。 細君が生きていた頃は、送って来る為替や小切手など、細君がちゃんと・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・行李の中には私たち共用の空気銃、Fが手製の弓を引くため買ってきた二本の矢、夏じゅう寺内のK院の古池で鮒を釣って遊んだ継ぎ竿、腰にさげるようにできたテグスや針など入れる箱――そういったものなど詰められるのを、さすがに淋しい気持で眺めやった。妻・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・漸々と出る息が長く引く息は短く、次第次第に呼吸の数も減って行きます。そして、最後に大きく一つ息を吐いたと思うと、それ切りバッタリと呼吸がとまって仕舞いました。時に三月二十四日午前二時。 梶井久 「臨終まで」
・・・ 強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽く引っ張る。すると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、手を持ったというくらいの軽さで通す。 男の児は小さい癖にどうかすると大人の――それも木挽きとか石工とかの恰好そっくりに見えるこ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫