・・・ 人間の文化が進むに従ってこの門衛の肝心な役目はどうかすると忘れられがちで、ただ小屋の建築の見てくれの美観だけが問題になるようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官を無視する科学者も時にはにおいで物質を識・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・のステーションへ著いたばかりであったが、旅行先から急電によって、兄の見舞いに来たので、ほんの一二枚の著替えしかもっていなかったところから、病気が長引くとみて、必要なものだけひと鞄東京の宅から送らせて、当分この町に滞在するつもりであったが、嫂・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 生田さんは新聞紙が僕を筆誅する事日を追うに従っていよいよ急なるを見、カッフェーに出入することは当分見合すがよかろうと注意をしてくれた。僕は生田さんの深切を謝しながら之に答えて、「新聞で攻撃をされたからカッフェーへは行かないという事・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・そうして今急にあすこに欠員ができて困ってるというから、当分の約束で行くのです、じきまた帰ってきますと、あたかも未来が自分のかってになるようなものの言い方をした。自分はその場で重吉の「また帰ってきます」を「帰ってくるつもりです」に訂正してやり・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・「これで、当分は枕を高くして寝られる」と地主たちが安心しかけた処であった。 枕を高くした本田富次郎氏は、樫の木の閂でいきなり脳天をガンとやられた。 青年団や、消防組が、山を遠巻きにして、犯人を狩り出していた。が、青年団や消防組員・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・もう今じゃ来なさらないけれども、善さんなんぞも当分呼ばないことにして、ねえ花魁、よござんすか。ちょいと行ッて来ますからね、よく考えておいて下さいよ。今行くてえのにね、うるさく呼ぶじゃないか。よござんすか、花魁」 お熊は廊下へ出るとそのま・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「ここのモリブデンの鉱脈は当分手をつけないことになったためなそうです。」「そうだないな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」嘉助が高く叫びました。 宿直室のほうで何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・「あああ、私も当分ここででも暮そうかしら」「いいことよ、のびのびするわそりゃ」「――部屋貸しをするところあるかしらこの近所に」 ふき子は、びっくりしたように、「あら本気なの、陽ちゃん」といった。「本気になりそうだ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・兎に角この一山を退治ることは当分御免を蒙りたいと思って、用箪笥の上へ移したのである。 書いたら長くなったが、これは一秒時間の事である。 隣の間では、本能的掃除の音が歇んで、唐紙が開いた。膳が出た。 木村は根芋の這入っている味噌汁・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・「安次、手前ここに構えとれよ。今度俺とこへ来さらしたら、殴打しまくるぞ。」 安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」 そう勘次が静に云・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫