・・・長兄は、もう結婚していて、当時、小さい女の子がひとり生れていましたが、夏休みになると、東京から、A市から、H市から、ほうぼうの学校から、若い叔父や叔母が家へ帰って来て、それが皆一室に集り、おいで東京の叔父さんのとこへ、おいでA叔母さんのとこ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・さて文士連と何の触接点があるかと云うと、当時流行のある女優を、文士連も崇拝しているし、中尉達も崇拝しているに過ぎない。中尉達の方では、それに金を掛けているだけが違う。それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる卓に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・特に言語などを機械的に暗記する事の下手な彼には当時の軍隊式な詰め込み教育は工合が悪かった。これに反して数学的推理の能力は早くから芽を出し初めた。計算は上手でなくても考え方が非常に巧妙であった。ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤー・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・道太は湯に浸りながら、駅で一人一人救護所へ入っていった当時の避難者の顔や姿まで思いだすことができた。「今日の容態はどうかしら」道太は座敷へ帰ってから、大きな鮎の塩焼などに箸をつけながら、兄が今ごろどうしているかを気づかった。「さあ、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ まだ組合なんか無かった頃の、皆可愛い子分達の中心に、大きく坐って、祝杯などを挙げた当時のことなどが、彼に甦って来た。「そんな、ひどい目に遭わしたのか?」 利平は、蒲団の上へ、そろそろと、起き上った。「だってさ」 女房は・・・ 徳永直 「眼」
・・・この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであろう。当時池之端数寄屋町の芸者は新柳二橋の妓と頡頏して其品致を下さなかった。さればこの時代に在って上野の風景を記述した詩文雑著のたぐいにして数寄屋町の妓院に説き及ばないものは殆無い。清親の風景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・枳の実で閉塞した鼻孔を穿ったということは其当時では思いつきの軽便な方法であった。果物のうちで不恰好なものといったら凡そ其骨のような枳の如きものはあるまい。其枳の為に救われたということで最初から彼の普通でないことが示されて居るといってもいい。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々精しい。 カーライルが麦藁帽を阿弥陀に被って寝巻姿のまま啣え煙管で逍遥したのはこの庭園である。夏の最中には蔭深き敷石の上にささやかなる天幕を張りその下に机をさえ出して余・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・その結果、半途にして学校を退くようになった。当時思うよう、学問は必ずしも独学にて成し遂げられないことはあるまい、むしろ学校の羈絆を脱して自由に読書するに如くはないと。終日家居して読書した。然るに未だ一年をも経ない中に、眼を疾んで医師から読書・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫