・・・ま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里を離れず、かえって旅人のような心持で巴里の町々を彷徨している男の話が書いてある。新橋の待・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻いで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人が北狄の侵略に遭い国を挙げてマルンの水とウェルダンの山とを固守した時と同じ場合に立った。痩せ細った総身の智略を振絞って防備の陣を張らなくて・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接し得るのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。 過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在の道を照す・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・そこで彼女は数日間仕事を求めて、街を、工場から工場へと彷徨うたのだろう。それでも彼女は仕事がなかったんだろう。「私は操を売ろう」そこで彼女は、生命力の最後の一滴を涸らしてしまったんではあるまいか。そしてそこでも愈々働けなくなったんだ。で、遂・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、時に顧みて箱館の旧を思い、当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、爾来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し聞見するときは、男・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・ 千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方彷徨った有様を憐れっぽく話した。 さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕け・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・「青春彷徨」などは直接青年の自己確立の過程、人間の目ざめの若々しくゆたかな苦悩を描いている。ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」もそういう文学として世界にあまり類のない作品である。ルナールの「にんじん」の主人公は少年であるけれども、どう・・・ 宮本百合子 「生きつつある自意識」
・・・その幽鬼たちが彼という存在との接触においてかつての現実の事情の中に完成されなかったいきさつを妄執として彷徨し、私という一人物はそれらのまぼろしの幽鬼に追いまくられて遂には鴎と化しつつ、自嘲に身をよじる。それを、作者は小説のなかでもくりかえし・・・ 宮本百合子 「観念性と抒情性」
・・・を連載しつつ、他方に「彷徨える女の手紙」「女の産地」等の小説を発表し、両者の間に見られる様々の矛盾によって、プロレタリア文学者へのいくつかの警告となったのであった。 能動精神の提唱から派生した以上のような諸問題が、夥しい作家、評論家によ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・私らにとっては樹木が自然の季節を知るように自明であることはなんにもない。どんなことでも私らは迷って見なければならないのだ。彷徨しないために一生さえ彷徨しなければならないのだ。 その女の歴史の切ない必然を見るこ・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
出典:青空文庫