・・・と言う共同風呂がある、その温泉の石槽の中にまる一晩沈んでいた揚句、心臓痲痺を起して死んだのです。やはり「ふ」の字軒の主人の話によれば、隣の煙草屋の上さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。この煙草屋の上さんは血の道か・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ 陳はほとんど破裂しそうな心臓の鼓動を抑えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである。 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物をか期待し、何物をか捜索するような目なざしをして・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。 聞いてさえ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 肺病のある上へ、驚いたがきっかけとなって心臓を痛めたと、医者が匙を投げてから内証は証文を巻いた、但し身附の衣類諸道具は編笠一蓋と名づけてこれをぶったくり。 手当も出来ないで、ただ川のへりの長屋に、それでも日の目が拝めると、北枕に水・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・あおむけに寝かして心臓音を聞いてみた。素人ながらも、何ら生ある音を聞き得ない。水を吐いたかと聞けば、吐かないという。しかし腹に水のあるようすもない。どうする詮も知らずに着物をあたためてはあてがい、あたためてはあてがってるのみ、家じゅう皆立っ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・旦那も今までの事はほんとうに悪かったとさとってそれからはもう心を堅くおきめになったので小吟は奥様を大変にうらんで或る夜、旦那が御番での留守を見はからってねて居らっしゃるまくらもとに立って奥様の御守刀で心臓を刺し通したので大変驚き「汝逃すもの・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・自分の踏んだ草が、自然に刎ね返って、延び上った姿、青い葉の裏に、青い円い体に銀光の斑点の付いている裸虫の止っているのも啼く虫と見えて、ぎょっとしたこと、其の時の小さな心臓の鼓動、かゝる空溝に生えている草叢にすら特有の臭い、其等は、今、こうや・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・この有り様を知ると花は、急に小さな心臓がとどろきました。しかし、ちょうは、ちっともそのことを知りませんでした。「ちょうさん、あなたのきれいな羽をお気をつけなさい。細い糸にかかりますよ。」と、花は、ちょうに注意をしました。 ちょうは、・・・ 小川未明 「くもと草」
出典:青空文庫