・・・ひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。 「す・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘くゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」 そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注・・・ 有島武郎 「親子」
・・・なに、忘れるものか。実際は何もかもちゃんと知っている。 車は止まった。不愉快な顫えが胸を貫いて過ぎる。息がまた支える。フレンチはやっとの事で身を起した。願わくはこのまま車に乗っていて、恐ろしい一件を一分時間でも先へ延ばしたいのである。し・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人は・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓を引抱えて、こう、風の音を忘れるように沈と考えると、ひょい、と火を磨るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」 と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書で細字に認めたのが、輝くごとく・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある熱心があるとはみえない。 こういうと君はまたきっと、「いやしくも男子たるものがそう妻子に恋々としていられるか」と・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・自分の子でさえ親の心の通りならないで不幸者となり女の子が年頃になって人の家に行き其の夫に親しくして親里を忘れる。こんな風儀はどこの国に行っても変った事はない。 加賀の国の城下本町筋に絹問屋左近右衛門と云うしにせあきんどがあった。其の身は・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・とU氏は暫らくしてから再び言葉を続け、「が、Yはマダ人間が出来ておらんから、恩に感ずる事も早いが恩を忘れる事も早い。君ももしYに会ったら能く訓誡してやってくれ給え。二度と再び島田に裏切るような不品行をしたなら、最う世の中へ出て来られない。一・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・が、そういう者は例外として、真に子供の為めに尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・だいいち、このような型の感傷、このような型の文章は、戦争中「心の糧になるゆとりを忘れるな」という名目で随分氾濫したし、「工場に咲いた花」「焼跡で花を売る少女」などという、いわゆる美談佳話製造家の流儀に似てはいないだろうか。 蛍の風流もい・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫