・・・そして思い返す間のないうちに「それじゃあ、交番へ来てくれたまえ」とついこんな事を云ってしまった。交番はすぐ眼の前にあった。公平な第三者をかりなければ御互いの水掛論ではとても始末が着かないと思ったのである。車掌は「エエ、参りますよ、参りま・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・の広い店先の障子を見ると、母がまだ娘であった時分この辺から猿若町の芝居見物に行くには、猪牙船に重詰の食事まで用意して、堀割から堀割をつたわって行ったとかいわれた話をば、いかにも遠い時代の夢物語のように思い返す。自分がそもそも最初に深川の方面・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・明治三十年頃、わたくしが『たけくらべ』や『今戸心中』をよんで歩き廻った時分のことを思い返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・かつてわたくしが年十九の秋、父母に従って上海に遊んだころのことを思い返すと、恍として隔世の思いがある。 子供の時分、わたくしは父の書斎や客間の床の間に、何如璋、葉松石、王漆園などいう清朝人の書幅の懸けられてあったことを記憶している。父は・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・四 諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫の身の悲しさに、珍々先生は昨日と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲って置くお妾の身の上や、馴初めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲・・・ 永井荷風 「妾宅」
隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。 その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四・・・ 永井荷風 「向島」
・・・ 涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩れず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は褪せる。 死ぬ事の恐しき・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・西宮さんがそんな虚言を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分もそこに同居して、平田が故郷の方の仕法がついて出京したら、二夫婦揃ッて隣同士家を持ッて、いつまでも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・慾の一典型ではあろうが架空的な誇張や一面的な強調を描写の中に感じ、そこに至ってはバルザックがロマンチストであったことを却って思い返す心持になって来るのである。 この現実の描写にあらわれて来ている理解の食い違いこそ、バルザックが受け身にだ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫