・・・と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女は女だ。そしてまた、自分が嬶・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・吉田は、とにかく女の言うことはみな聞いたあとで温和しく断わってやろうと思っていた自分が、思わず知らず最後まで追いつめられて、急に慌ててカッとなったのに自分ながら半分は可笑しさを感じないではいられなかったが、まだ日の光の新しい午前の往来で、自・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 兵卒は、思わず、恐怖から身震いしながら二三歩うしろへ退いた。伍長が這い上って来る老人を、靴で穴の中へ蹴落した。「俺れゃ生きていたい!」 老人は純粋な憐れみを求めた。「くたばっちまえ!」 通訳の口から露西亜語がもれた。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・で、思わず知らず鼻のさきで笑うような調子に、「腕なんぞで、君、何が出来るかネ。僕等よりズット偉い人だって、腕なんかがアテになるものじゃあるまい。」と云った。何かが破裂したのだ。客はギクリとしたようだったが、さすがは老骨だ。禅宗の味噌・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・――が、フト、ズロースの事に気付いて俺は思わずクスリと笑った。然し、その時の俺の考えの底には、お前たちがいくら俺たちを留置場へ入れて苦しめようたって、どっこい、そんなに苦しんでなんかいないんだ、という考えがあったのだ。「ま、もう少しの我・・・ 小林多喜二 「独房」
過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うことも・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ 焔はちろちろ燃えて、少しずつ少しずつ短かくなって行くけれども、私はちっとも眠くならず、またコップ酒の酔いもさめるどころか、五体を熱くして、ずんずん私を大胆にするばかりなのである。 思わず、私は溜息をもらした。「足袋をおぬぎにな・・・ 太宰治 「朝」
・・・と戦わねばならぬ。 潮のように押し寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。 けれど実際はまたそう苦しいとは感じていなかった。苦しいには違いないが、さらに・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・文ごとにうたゝ活動する趣ありて宛然まのあたり萩原某に面合わするが如く阿露の乙女に逢見る心地す相川それの粗忽しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
出典:青空文庫