・・・ わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢の恐るべき事などを小耳に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ シャロットの女の投ぐる梭の音を聴く者は、淋しき皐の上に立つ、高き台の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居である。蔦鎖・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・最も恐るべくへたな恋の都々一なども遠慮なく引用してあった。すべてを総合して、書き手のくろうとであることが、誰の目にもなにより先にまず映る手紙であった。どうせ無関係な第三者がひとの艶書のぬすみ読みをするときにこっけいの興味が加わらないはずはな・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ そして、その眼は恐るべき情景を見た。 それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。 深谷は、一週間前に溺死したセコチャンの新仏の廓内にいた! 彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく載っけることが・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・之が為めに男子の怒ることあるも恐るゝに足らず、心を金石の如くにして争うこそ婦人の本分なれ。女大学記者は是等の正論を目して嫉妬と言うか。我輩は之を婦人の正当防禦と認め、其気力の慥かならんことを勧告する者なり。記者は前節婦人七去の条に、婬乱なれ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・昼は則ち日光を懼れ又人及諸の強鳥を恐る。心暫くも安らかなるなし、一度梟身を尽して、又新に梟身を得、審に諸の苦患を被りて、又|尽ることなし。」 俄かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。ただかすかなかすかなすすり泣きの声が、あちこちに聞・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ 人が、陥り易い多くの盲目と、忘我とを地獄の門として居る為に、性慾が如何に恐るべき謹むべきものであるかと云うことは、昔の賢者の云った通りである。 然し、本然が暗と罪と堕落なのであろうか。此処に来ると、自分は長与氏、又は、トルストイの・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・この人は恐るべき形の記憶を有している。その作品は手を動さない間にも生長しているのである。この人は恐るべき意志の集中力を有している。為事に掛かった刹那に、もう数時間前から為事をし続けているような態度になることが出来るのである。 ロダンは晴・・・ 森鴎外 「花子」
・・・此の恐るべき文学の包括力が、マルクスをさえも一個の単なる素材となすのみならず、宇宙の廻転さえも、及び他の一切の摂理にまで交渉し得る能力を持っているとするならば、われわれの文学に対する共通の問題は、一体、いかなる所にあるのであろうか。それは、・・・ 横光利一 「新感覚派とコンミニズム文学」
・・・哲学者はこの世界が元子の離合集散に過ぎないこと、現世の享楽の前には何の恐るべきものもないことなどを答える。パウロはますます熱して永生の存在を立証する彼自身の体験について語り始める。物見高いアテネ人は――「ただ新しきことを告げあるいは聞くこと・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫