・・・ しかし一つの恐怖心が次第に増長する。それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・こう思った渠は一種の恐怖と憧憬とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。 修羅の巷が想像される。炸弾の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それから上野が斬られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽とを示す簡潔で有力な幾コマかをフラッシュで見せたい。そうしないとせっかくのクライマックスが少し弱すぎるような気がする。 第二のクライマックスは赤穂城内で血盟の後復讐の・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・ 利平は、身内を、スーッと走る寒さに似た恐怖を感ぜずにいられなかった。「おい、支度をしろ、今日のうちに、引越してしまおう」 おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。・・・ 徳永直 「眼」
・・・盗難のあった其れ以来、崖下の庭、古井戸の附近は、父を除いて一家中の異懼恐怖の中心点になった。丁度、西南戦争の後程もなく、世の中は、謀反人だの、刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり、少しく門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼はどれ程警察署や監獄署に恐怖の念を懐いたろう。彼はそれからげっそり窶れて唯とぼとぼとした。事件は内済にするには彼の負担としては過大な治療金を払わねばならぬ。姻戚のものとも諮って家を掩いかぶせた其の竹や欅を伐ることにした。彼は監獄署へ曳かれ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。第八夜 床屋の敷居を跨いだら、白い着物を・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・が低く、原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は、真面目に信じているのである、現に私の宿の女中や、近所の村から湯治に来ている人たちは、一種の恐怖と嫌悪の感情とで、私に様々のことを話・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・あまり水裡の時間が長いので、賞賛の声、羨望の声が、恐怖の叫びに変わった。 ついに野球のセコチャンが一人溺死した。 湖は、底もなく澄みわたった空を映して、魔の色をますます濃くした。「屠牛所の生き血の崇りがあの湖にはあるのだろう」・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に理由のない事だ。換言すれば其人の心持にある。即ち孔子の如き仁者の「気象」にある。ああ云う聖人の様な心持で居たらば、死を怖れて取乱す事もあるまい。人生の苦痛に対しても然り、聖人だって苦痛は有・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫