・・・が、彼は悪感を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさに・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・譚は僕等の寄宿舎生活中、誰にも悪感を与えたことはなかった。若し又多少でも僕等の間に不評判になっていたとすれば、それはやはり同室だった菊池寛の言ったように余りに誰にもこれと言うほどの悪感を与えていないことだった。………「だが君の厄介になる・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 沼南の清貧咄は強ち貧乏を衒うためでもまた借金を申込まれる防禦線を張るためでもなかったが、場合に由ると聴者に悪感を抱かせた。その頃毎日新聞社に籍を置いたG・Yという男が或る時、来て話した。「僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・そして、狭小、野卑の悪感を催さない。なぜならば、これ、一人の感情ではなかったゝめだ。郷人の意志であり、情熱であった。これを、土と人とが産んだものと見るのが本当であろう。 民謡を都会の舞台に乗せたり、また、職業的詩人をして、一夜造りに、こ・・・ 小川未明 「常に自然は語る」
・・・男爵は、ぶるっと悪感を覚えた。髪が逆立つとまでは言えないが、けれども、なにか、異様にからだがしびれた。たしかに畏怖の感情である。人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろに・・・ 太宰治 「花燭」
・・・如何に人間の弱点を書いたものでも、その弱点の全体を読む内に何処にかこれに対する悪感とか、あるいは別に倫理的の要求とかが読者の心に萌え出づるような文学でなければならぬ。これが人心の自然の要求で、芸術もまたこの範囲にある。今の一部の小説が人に嫌・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・学校時代のことを考えると、今でも寒々とした悪感が走るほどである。その頃の生徒や教師に対して、一人一人にみな復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ、苛められ、仲間はずれにされ通して来た。小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・云われた者は、教えられた感謝より、いつも、苦々しい悪感、恥かしさ、敵慨心を刺戟されるように扱われるのである。 中には、一人二人、特にいつも目をつけられ、ことごとに冷笑を浴びる者もある。 それでも、その朝は無事で、大抵の者が通り抜けた・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・伸子は、或人のおできが自分に悪感を催させるからと云って、其人に悪意がない以上とがめられない、気の毒さを感じた。 ○佃が、下の賑やかな笑い声を叱ったこと。 ○札を下げたこと。 ○西君が水に溺れかかったとき、彼に親切にすることについ・・・ 宮本百合子 「「伸子」創作メモ(一)」
・・・私はあの人を少しでもよくしなければならない立場にありながら、あの人に対する自分の悪感のみを表わしたのです。私の悪感は彼をますます悪くしようとも、善くするはずはありません。すでにこれまでにも彼を圧迫する事によって彼の自暴自棄を手伝ったのは、私・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫