・・・かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一時とだえた追懐の情が流るるように漲ってきた。 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・憤怒、悲哀、痛苦を一まとめにしたような顔を曇らせて、不安らしく庭をあちこち歩き廻るのである。異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かな・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・い空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて、今のような家庭の主婦となったことについては、彼女自身ははっきり意識していないにしても、私の感じえたところから言えば、多少枉屈的な運命の悲哀がないことはなかった。彼女はその真実・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・君と余と相遇うて亡児の事を話さなかったのは、互にその事を忘れていたのではない、また堪え難き悲哀を更に思い起して、苦悶を新にするに忍びなかったのでもない。誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡て浅薄である、虚偽で・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・余は彼女の面前にありて一種深奥なる悲哀を感ず。彼女のすべては余に美しく見ゆ。余は今に至るまで彼女を愛しき。されども今日は単に彼女を愛すてふそれにては余の心は不満を感ずるなり。さらば余は彼女を恋せるなるか。叱! 神よ、日記は爾が余に与へ給へる・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ 隠れ乍らも、私の心は、深い悲哀に満されて居る。男を追って走り去った赤い洋服の娘のことが心掛りで仕方ないのである。 涙をためて机の下に丸まって居ると、戸口の方に人声がし、一人の婦人が入って来た。まるで入口一杯になる程、縦にも横にも大・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増の美人のようなものだね。こんな日にもぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して、ともに泣き互いに励まし合うのは、私にとっては最も人間的な気のする事です。私はこういう人に対していかなる場合にも高慢である事はできません。特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ 木下杢太郎は傷つきやすい心を持っている。悲哀にも沈みやすい。こうもりが光を恐れるように倫理的な苦しみを恐れる。それゆえに、「一生を旅行で暮らすような」彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫